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 奈津紀は絶句した。響介に対する愛を考えると、確かに綺麗とは言い難い。絞り出すように「そうだね」と声にした。
 その途端、鼻の奥が、つん、と痛くなった。突然水の中に潜ったような感覚。ああ、と両手で顔を覆う。涙はそれでも止まらなかった。
「奈津紀?」
 暗闇に目が慣れてきていた。響介が頭を上げて、斜め上からこちらを見つめているのがわかった。奈津紀はけれど、顔を背けるようにして言った。
「どうして、できないの? 他の子とはちゃんとできたんでしょ? どうして、私だけ……」
 涙が止めどなく流れる。温かかった。今、心は温かさをまるで持たないのに、どうしてこの涙は温かいのだろう。人間の体って、本当にどうなってるんだろう。
 響介と奈津紀はこれまで三回セックスをした。ラブホテルで、ウィークリーマンションで、響介の部屋で。その何れも、響介は奈津紀の中でいくことができなかった。いわゆる中折れしてしまうのだ。最後はいつも奈津紀の右手が終わらせた。初めての時、そういうこともあるか、と楽観視し、「気持ち悪いよね?」と奈津紀が提案したことが、その後のルーティンになってしまった。コンドームは、精液がシーツに飛び散らないようにするためにある道具であるかのようだった。
 響介は黙っていた。なにかを言おうとしている気配だけが耳にうるさい。ピストルを向けられたような絶望の中で、奈津紀は泣き続けた。
 私が子どもだから……。
 やがて力尽きたように、響介の頭が枕に落ちた。ああ、と奈津紀は目を閉じる。冷凍保存された愛なんていらない。

     (四)

 重い足音の後、かちゃ、とドアが閉まる音がした。
 荘太か? やけに早いな。
 智子はエレクトリックベースを床に置くと、立ち上がって冷蔵庫の前へ向かった。中から五百ミリリットルの缶ビールの六缶パックを二つ取り出す。「……重いな」と口から漏れる。響介の部屋まで距離はないが、ドアを二つ開閉しなければならないことが気になった。
 確認がてら、荘太にメールを送ることにした。
『ひょっとしてもう響介の部屋にいる? だったら私の部屋に来て。ビール運ぶの手伝ってほしい』
 返事はすぐに来た。
『います。わかりました。すぐに行きます』
 ビールを玄関に置いたその時、部屋のチャイムが鳴った。はいはい、とドアを開ける。
「智子さん、こんばんは」
 屈託のない笑顔で荘太は言った。なんだか申し訳ない気持ちで「荘太、久しぶり」と挨拶を返す。
「これなんだけど、響介の部屋までお願い。私もすぐに行く」
「わかりました」
 部屋の中に戻ろうとして、はたと動きを止める。荘太に動く気配がなかった。あっ、と智子は思う。見られた。床に置かれたエレクトリックベース、その傍らで散乱している筆記用具と楽譜。お世辞にも綺麗とは言い難い部屋。
 ちょっと! と言いかけて思いとどまる。自分から呼んでおいてそれはない。
「ギター弾いてたんですか?」
「あれ、ギターじゃないよ、ベース」
「そうでした」
 そうでした?
「恰好いいですね、智子さんの部屋。やっぱりロックっていう感じがします。西川さんの部屋と間取りは同じ──、厳密に言うと逆向きですけど、別のアパートの部屋かと思うくらい違います。それぞれ個性が出てて、おもしろいなあ。二人とも根っからのアーティストですね」
「今ので大体響介の部屋が想像できたよ」
 違和感があった。それは荘太も同様だったらしく、お互いに顔を見合わす。噛み合っているようで、どこか不自然な会話。荘太とまだ話し慣れていない自分に気付く。
「じゃあ、先に行ってますね」
 荘太はビールをそれぞれ両手で持ち上げると、智子の部屋を辞した。

「ほんとだ、荘太。私の部屋と全然違う」
 響介の部屋は生活感がなかった。部屋というよりコントロールルームといった方がいいかもしれない。音楽機材が響介の忠実な兵隊のように毅然と整列している。それは幼い頃に流行ったゲーム『テトリス』を連想させた。
 部屋の中央に正方形の折りたたみ式テーブルが置かれていた。智子は荘太の向かいに座った。響介は部屋の端でMacBookを触っている。
『ちょ、ちょ、ちょっと待って!』
 声に、はっと振り返る。
『あ?』
『うちの妹の話しよう』
『えっ、なんで?』
『これが、うちの妹が馬鹿でさあ』
『おいおい、俺は今──』
 テレビが点いていることに、今になって気が付いた。こうして見ると、テレビも音楽機材のようだ。
「あっ、これ観てた? ごめん、移動するわ」
「ああ、いいよ。消すから」
 答えたのは響介だった。隣にやって来て、あちこち忙しなく操作した後、最後にテレビの電源を切った。ブルーレイディスクをケースに戻しながら、「それにしても」と話し始めた。
「二人とも早いな。まだ七時だよ。どうする? 先に三人で始める?」
「奈津紀は?」
 立ち上がって歩き出した響介の背中に声を投げた。響介は、まるでパズルをするようにブルーレイディスクを慎重に棚に差し込みながら、「八時まで来れない」と答えた。ブルーレイディスクを片付け終わると、MacBookの前に戻った。
「だから今日は八時からって話でしょ?」
「やっぱそうなの? 私、荘太が響介の部屋に入ったのがわかって、てっきり時間が早まったのかと思った」
「すいません。中途半端に時間が空いちゃって」
 荘太が苦笑気味に頬を歪める。
「御前が早すぎるんだよ。もうちょっと早かったら、俺もいなかったからね」
「西川さん、出掛けてたの?」
「うん。病院」
「病院?」
 訊いたのは智子だった。響介が智子に向き直る。
「心療内科。薬をもらいに行っただけだよ。毎日飲まないといけないんだけど、一ヶ月分しかもらえないから月に一度通院しないといけないんだ。薬だけもらうってわけにはいかないしね。本当はそうしたいんだけど。診察なんて意味ないよ。世間話みたいなもんだ。医者もパニック障害のことはわかっていないんだよ。きっと当人の俺たちの方が詳しい。『ちゃんと寝てますか?』『ちゃんと食べてますか?』って、全く的外れな質問をしてくる。あれで二千円近く取られるんだから、本当にパスしたいね」
「えっ、そんなに払ってるの?」
 響介が目を丸くする。冗談だと思ったのか、荘太が大きな声で笑う。
「なに言ってるんですか、智子さん。二千円ですよ?」
「だって、自立支援医療制度は?」
「自立支援医療制度?」
 初めて聞いた、とでもいうように、響介がぎこちない口調で問い返す。今日はやけに会話が噛み合わないな。そう思った瞬間、はっと息を呑む。気が抜けている自分に今更ながら気付く。
「なんですか、それ」
 すっかり真顔に戻った荘太が尋ねる。
「私も詳しくは知らないんだけど、医療費を国が負担してくれる制度? 実は、うちの妹も心療内科に通院してて」
 一息に言って、響介の顔を窺い見る。真剣な横顔。響介はインターネットで自立支援医療制度を調べている様子だった。やっぱり知らないんだ……、と智子は肩を竦めた。
「──ああ、あった、これだな。精神疾患で通院による精神医療を続ける必要がある病状の方に、通院のための医療費の自己負担を軽減する制度があります、か」
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝