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「今夜はクリームシチューを作るね」
「いいね。今日ほとんど何も食ってないんだよ」
 奈津紀は部屋に上がると、すぐにキッチンに向かった。響介の部屋はワンルームで、部屋の中にキッチンがある。料理をしながら尋ねた。
「どうだった? バイト」
「うまくやれそうだよ。店長も、バイトの人も、すごくいい人だった。結局、仕事の善し悪しは、そこにいる人間で決まるからね。店長は徹底的に優しかったね。上に立つ人間は憎まれ役だけど、あの人はそれが嫌なんだろうな」
「うちの店長もいい人だよ。単純にいい人だと思ってたけど、やっぱりそういうこと考えてたりするのかな? 大人ってめんどくさいね」
「職場っていう所は特にね。社会が、ぎゅっ、と凝縮されたような所だから」
 背中に伝わる響介の声に違和感があった。彼はこちらを向いて話していない。振り返って確認すると、MacBookでなにやら作業をしているようだった。
「なにしてるの?」
 響介はそれでもMacBookの操作を続けたまま、「ああ、それでもう一人のバイトの人なんだけど」と話を続けた。
「俺のことを知ってたんだよ。ライブを観に行ったこともあるし、CDも持ってるって言うんだ。驚いたよ」
「えっ。キョンくんのファンの人だったの?」
「まあ、そうかな」
「どんな人?」
「俺の一つ年上の人。手島さん」
 手島、と唇の裏側でひっそりと呟く。
「世間は狭いね。『なあ、復活ライブはいつなんだよ』って迫られたよ。それで火が点いちゃってさ。こうしてインターネットでライブハウスをリサーチしてるわけ」
 乱暴な物言いだな、と思う。
 世間は狭い。奈津紀にも心当たりがあった。けれど響介の東京での活動範囲は新宿より東側だったはずだ。こんな所にもファンがいるのか。
 そうだ、彼はミュージシャンなんだ、と今更ながらに実感する。そして自分がそんな彼の恋人であることを改めて自覚しながら、「すごいね」と口にした。
「キョンくんのライブか。私も早く見たいな。アルバムは二枚ともヘビロテしてるよ。iPodの再生回数が一番多いのキョンくんの曲だもん。ねえねえ、あれやる? セカンドアルバムの一曲目」
「えっ。アルバム買ったの? 別に買わなくてもオレに言ったらあげたのに」
「買いたかったから。ファンとして」
 なんとも偽善めいた台詞だな、と思ったが、きっぱりと言った。愛する人の生み出したものは、やはり愛しい。けれど、それを差し引いても、響介の音楽は素晴らしいと思った。通販サイトで試聴した時の感動は今でも覚えている。気付けば、「注文を確定する」のボタンをクリックしていた。
「ファンか。じゃあ、水面下のことは話せないな」
「えー、聞きたい。そこは切り替えて」
 あはは、と響介は笑った。
「実は、シングルを作ろうと思ってるんだよね。シングルを作りながら、ライブハウスを吟味して、で、シングルを引っ提げてライブをするっていうのが当面の計画」
「そっか。西川響介、第二章だね」
「部屋も決まって、バイトも決まって、いよいよ音楽活動再開だ」

 クリームシチューとフランスパンがテーブルに並ぶ。響介はまだMacBookの画面を見ていた。「できたよ」と声を掛けると、名残惜しそうにゆっくりとMacBookを閉じた。もう少し煮込んでいた方がよかったかな、と思ったが、どうやら思い違いだったらしい。響介が怪訝そうな表情で、うーん、と声を漏らした。
「どうしたの?」
「メール、来なくなったんだよね」
 誰から? と訊くしかない逃げ道のない話し方。ティーモのことだと奈津紀はわかっていた。考えるより先に「メールといえば」と声に出していた。意外にすぐに思い当たり、落ち着いた口調で続けた。
「トモちゃんからメールあったよ。明日、キョンくんの部屋を見せてもらうって」
「ああ、今朝出掛ける時に偶然会って、そんな話になった」
 響介がクリームシチューを食べ始める。「うん、うまい」と一言呟いた。その言葉を聞いてから、奈津紀は「いただきます」と両手を合わせた。
「それでね。私も行くって伝えたら、それなら御前くんも呼んで引っ越し祝いしようって」
「いいアイデアだ。御前に訊いてみるか」
「もう連絡してると思う」
「ですよね」
 二人で談笑しながら食事をした。ああ、楽しい。豪華なディナーを立派なレストランに食べに行くより絶対に楽しい。そんなことを思う自分はやはり子どもなのだろうか。付き合い始めの時期は、それだけで世界がきらきらしているから、こういった夫婦が当たり前にするような地味なイベントの方が反って際立ち、幸福感もひとしおなのだ。

 響介のパジャマに袖を通す。自分の体が縮んでしまったような錯覚を覚える。響介と奈津紀は二十センチメートルの身長差があり、パジャマが大きすぎるのである。
『完璧だ』
 この身長差が発覚した時、響介は言った。なにが完璧なのだろう。パジャマの袖を引っ張りながら、奈津紀は思う。こんなにも余白が生じているというのに。
 奈津紀には四歳年下というコンプレックスがあった。響介にとって、自分は幼すぎるのではないか、と。そうですよ、と言わんばかりの恰好だ。けれど一方で、優越感にも浸っていた。今このパジャマを着られるのは世界で自分ただ一人なのだ。
 バスルームと洗濯機が置かれた一角。そこと部屋を、響介は自作のカーテンで区切っていた。カーテンを開けて部屋に戻る。
「お待たせ」
 交代で響介がシャワーを浴びに行った。その間、奈津紀はドライヤーで濡れた髪を乾かす。テレビでアニメが流れていた。ドライヤーの音で音声は掻き消されていたが、それが妙に内容と噛み合っていて、目が離せなくなる。スローモーションの映像の中、自転車に乗った女子高校生が電車に撥ねられたのだ。
 午前一時、二人は布団に入った。響介とは、遠距離恋愛をしていた頃、いろんなことを電話で話した。過去のことも、未来のことも。だけどこの話は、多分初めてだ。
「キョンくん。もし私が死んだらどうする?」
「…………」
 真剣に考えてくれている気配が伝わってくる。答えに胸を躍らせていると、泣く、と聞き逃してしまいそうな程短い一言が返ってきた。それがおかしくて、「そういうことじゃなくて」と笑いながら訊く。
「新しく彼女作る?」
「奈津紀はどうしてほしい?」
「キョンくんが幸せならそれでいい。ただ、逆の場合。キョンくんが死んじゃったら、私はもう恋愛しない」
「二十歳でなに言ってんの」
「高校の時にね。友達三人と放課後集まって、そんなことばっかり話してた時期があるんだけど。最終的に全員意見が一致したんだよ。彼氏が死んだら、その人のことを一生愛し続けるって。永遠の愛は、そういう状況にならないと生まれないっていう結論だったの。相手が死ぬことによって、愛がそこで止まるから、衰退することも、消えることもない。冷凍保存されちゃうんだよ。だから一生愛し続けることができる」
「少女漫画の読み過ぎだね。現実の愛はそんなに綺麗じゃない。冷凍保存したところで、不純物もいっぱい混ざってる。それ以上汚れることはなくても、既に充分汚れてる」
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝