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 二階建ての店内は部屋が全部で八つ。一階に三部屋、二階に五部屋。二階の部屋のドアは全て開いていた。開店して一時間が経った午後一時現在、客が入っているのは三部屋のようだ。手島は先程挨拶した場所から動いた気配がない。仕事は楽かもしれない、と響介はほくそ笑んだ。
 最後に案内されたのが厨房。そこで問題が起こった。
 足を踏み入れて、響介は目を見開いた。ガスオーブン付きのガスコンロ。隣のサービス台には中華鍋が積み重ねられている。
「本格的ですね……」
「力入れてるんですよ、フードメニュー。それは後で説明しますね。まずは──」
 店長がドリンクメニューの説明を始める。響介はゆっくりメモを取った。それは慎重、確実という意味にあらず、嫌なことを先延ばしにしようとする悪あがきだった。
 店長が「レシピ」と書かれたファイルを手に取って言った。
「ドリンクメニューは以上です。次はフードメニューですね。とりあえず、なにか作ってみましょうか。で、飯にしましょう。賄いは自分で作ってもらうことになります。ここにあるものはなにを使ってくれてもいいので。一食分お金が浮きますよ」
 嫌な予感は的中した。店長の言葉に、響介はそれまでのように「はい」と返事をすることができなかった。
 響介は外食ができなかった。それは小学生になってすぐに発覚したことだった。給食が食べられなかったのだ。小学校一年生の初めての給食の時間、先生は言った。
『残さず食べましょう』
 その言葉が幼い響介に重くのしかかった。残してはいけない。時間内に食べなければいけない。そのプレッシャーが食欲を根こそぎ奪った。給食を目の前にすると、食べられなかったらどうしよう、という不安でいっぱいになった。
 献立は肉じゃがだった。じゃがいもを箸で一口大に切って口に運ぶ。おえっ、となって吐き出す。それからはもう給食に手を付けられなかった。給食を食べ終えたクラスメイトが、一人、また一人と教室を出ていく。響介は箸を持った姿勢のまま、昼休憩を終えた。
 午後の授業が始まっても、放課後になっても、響介の机の上には運ばれてきた状態の給食が置かれたままだった。夕暮れの教室に、響介は一人取り残された。様子を見に来た先生が「一口食べたら帰ってもいいわ」と譲歩したが、それでも食べることができなかった。先生が根負けするのを待つしかなかった。
 最終的に先生は折れた。暗くなるまでに家に帰さなければならないので当然のことだったが、当時の響介にはわからなかった。助かった、と思うばかりだった。両手でお盆を抱えて給食器具が格納されている倉庫に向かう。一人、人気のない廊下を歩いていると、まるで世界から人類が消えてしまったような孤独感を覚えたが、解放感が勝った。
 これが六年間続いた。
 思春期の西川響介は、自分は異常だと思いながら生きていた。外食の機会があるたびに、嫌でも自覚せざるを得なかった。人並みのことができない、欠落した人間なのだと。
 テレビというメディアから距離を置くようになったのもこの頃だ。日本のテレビ番組は料理を扱ったものが多すぎる。海外のテレビ事情を知っていたわけではなかったが、おそらく日本だけだろうと思った。夜のはじめの時間帯は料理が出て来ない番組を探す方が困難で、明らかに特殊だ。
 響介は今後、プロフィールを書く機会があれば、「嫌いなものは食事」と書くことを決めた。
 そんな折、高校入学祝いに両親がパソコンを買ってくれた。響介はすぐにインターネットに夢中になった。知識欲が強いわけではなかったが、自分の欲しい情報だけを得ることができることに感動し、毎晩あれやこれやと検索していた。
 そうして見つけたある病名。それを見て、響介の人生観は変わった。救われた、心の底からそう思った。
 会食不能症。
 改めて「会食不能症」で検索をかけると、自分と全く同じ悩みを持つ者の書き込みがいくつもあった。自分一人がおかしいわけではなかった。病気だったのだ。長年無人島生活をしていて、いきなり集落を発見したような衝撃だった。
 今にして考えると、会食不能症もパニック障害と同じ精神疾患で、先天的にそれを患っていた響介は、パニック障害を併発する可能性を多分に持っていたということになるが、当時、パニック障害という病気は今以上に認知度が低く、そんなことは知る由もなかった。
「どれにします?」
 言いながら、店長がファイルを差し出す。
「あの、食べてきたので、あんまりお腹空いてないんですけど……」
 お決まりの台詞だった。「お腹が空いていない」「お腹の調子が悪い」は、この人生で最も多く使われた嘘だろう。
「じゃあ、僕が少しもらいますんで、とりあえず作りましょう。なににします?」
 不安を感じる隙を与えない返答。見事な助け舟だった。響介にとっては殊更意味を持つもので、一息で言い切った言葉が、短い名言のような印象を残した。
 不自然な優しさだ。響介は背筋を正した。
 店長は常に柔らかい表情で、話し掛ける時は笑顔を添えることを忘れない。五十嵐のように常に無表情なのもどうかと思うが、必要以上に笑う人はそれ以上に不気味だ。笑顔を相手に印象づける必要があるということ、つまりそれは隠さなければならない表情があるということだ。
 響介は焼うどんを作った。肉を使わず、つゆの素で仕上げるそれが、最もあっさりしていて食べ易いだろうという判断だった。
 店長は生姜焼き丼を作った。それから響介の焼うどんを半分程度小皿に移して横に添えた。
「もうすぐロンドンオリンピックですね」
 食事中は仕事の話をしないらしい。助かった。耳には入っても頭に入りそうになかった。目の前には半分になった焼うどん。半分なら食べられるかな。店長の話に、そうであると悟られないように、適当に相槌を打ちながら、恐る恐る口に運ぶ。
 店長が食べ終えても、響介の前には焼うどんが残ったままだった。やはり喉を通らない。小学校の記憶がフラッシュバックする。けれど店長は言った。
「僕、トイレ行ってくるんで。それ、食べられないなら捨てちゃってください」
 そんなことは大した問題ではない、とでもいうような語調だった。食事を残すことは大罪であると思い込んでいた響介は呆気に取られた。店長が厨房から出て行ったのを確認すると、残った焼うどんをゴミ箱に捨てた。
 その時だった。背後から「なあ」と声を掛けられ、びくっと肩を竦める。やはり罪を犯しているところを見つかったように冷や汗が出る。声の方を見ると、手島がウエスタンドアの上から顔を覗かせていた。
「もしかして音楽やってる?」
「ああ、はい。どうして……」
「やっぱりそうか。似てるなって思ってたんだ」
 病気ではない方のパニックに陥る。手島はウエスタンドアを開けると、探偵が容疑者の中から犯人を告げるように、響介を指差して言った。
「西川響介だな?」

     (三)

 胸いっぱいに息を吸い込み、頭の中で五秒数えてから、できる限りゆっくりと息を吐き出す。三回繰り返した後、チャイムを押した。
「奈津紀、遅かったね」
 ドアを開けた響介が訝しげに言った。
 傘をアンブレラハンガーに掛けながら、「スーパーが混んでて」と言い訳をする。
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝