ディレイ
(一)
御前荘太は漫画を描く手を止めた。壁を一瞥して、椅子の背凭れに体重を預けると、天井を仰いだ。
荘太は三鷹市にある『東京道産子寮』という男子学生寮で暮らしている。
入寮した頃は楽しかった。東京で友達ができるだろうか、という不安は瞬く間に打ち消され、あっという間に地元にいた頃より友達が増えた。『東京道産子寮』はその名の通り、北海道出身者しかおらず、同郷のよしみで打ち解けるのも早かった。夜、共同の大きな風呂に入った後は、誰かしらの部屋に集まり、みんなで夜更けまでゲームをするのが毎日のルーティンとなり、終わりのない修学旅行のような気分だった。
それが、漫画を本格的に描くようになり、事情が変わってきた。
今、荘太が行っている「ペン入れ」という作業は、鉛筆で描かれた下書きの描線をインクでなぞって引き直す漫画執筆のメインイベントであり、多大な集中力を要するため、自分の部屋で行うことになるのだが、『東京道産子寮』の部屋の壁は薄く、遮音性に乏しかった。壁の向こうから四、五人でゲームをしている声が聞こえてくる。荘太は作業に集中することができず、いよいよペンを置いたのだった。
せっかく今夜は雨なのに。
荘太は雨が好きだった。昔から、雨が降ると落ち着くのだ。研ぎ澄まされた空気を持つ夜、リラックス効果のある雨音。この組み合わせは集中力を増大させる。荘太にとって、特別な夜だった。それだけに、今夜は落胆が大きい。
「iPodでも買えば?」
荘太の心境を察して、部屋に遊びに来ていた長谷川歩夢が助言した。振り向くと、長谷川は読んでいた漫画を床に置き、こちらをまっすぐ見ていた。
「音楽か」
「ていうか、お前さ。もうちょっと力抜けよ」
「えっ」
「昨日は友達の家で晩飯食ってきたって言うから安心したけど、戻ってきたらまた元通りじゃねえか。いつ見ても机の前だ。はっきり言って病的だぜ。ここは大学じゃないんだからよ。寮のみんなも寂しがってるし、たまには息抜きしろよ。ハンドルに遊びがあるから、車はまっすぐ走るんだぜ?」
「ああ、車で思い出した。長谷川、BMWみたいな名前のバンドのCD持ってる?」
「……『Melancholic Water Blue』だな。通称、MWBだ」
「そうそう、それだよ」
「俺を誰だと思ってる。先週出たベストアルバムも発売日に買ったよ」
「最近の音楽はよくわからないんだけどさ、前に誰かの部屋でライブ映像を見て、ちょっと気になってるんだよね。貸してくれないかな、そのベストアルバム。気に入ったらiPodを買うことにするよ。そうじゃないと、きっと容量を持て余すから」
「あのさ、俺の話聞いてる?」
「聞いてるよ。iPodは長谷川の提案じゃないか」
長谷川は口をへの字に曲げ、アメリカ人よろしく、お手上げだ、といったジェスチャーを見せた後、床に置いた漫画を拾い上げ、再び黙々と読み始めた。
長谷川は本気で心配してくれているのだ。このままでは寮内で孤立してしまうぞ、と。だからこうして足繁く部屋を訪ねてきては、ただ一緒にいてくれるのだ。何かをしてあげる足し算の優しさではなく、引き算の優しさ。それができる長谷川を、荘太は尊敬していた。
ごめん、と心の中で謝る。
修学旅行は終わったんだ。
漫画のページを捲りながら、「もし」と独りごちるような口調で、長谷川は訊いた。
「iPodを買うとして、他には誰の曲が入るわけ?」
荘太は机に向き直り、原稿に視線を落としてから答えた。
「西川響介」
(二)
雨は翌日になっても、やむことはなかった。響介は達観したような佇まいで、外から聞こえる雨音を聞いていた。
まあ、そうだろうな。
天気予報を確認していたわけではなかったが、響介にはわかっていた。昔から、こういう日は決まって雨なのだ。
響介はアルバイトを決めた。近所の小さなカラオケ店。スタジオ代が浮くかも、と社員割引を期待して、そこで働くことにした。今日がその初日なのだ。
イタリア製の赤い傘を手に取る。雨の日の憂鬱を軽減させるために奮発した代物だ。
二○二号室のドアが開くのと同時に、二○一号室のドアが開いた。
「あっ、智子ちゃん」
「響介、おはよう。雨だね、最低」
久しぶりに智子の顔を見た。隣人になるのに奈津紀の承諾がいる、と言っていたので、もっと交流があるものだと思っていたが、一週間ぶりの再会だった。それも偶然の。
智子が「あっ」と言って、踊り場の手摺に駆け寄る。
「オーナー! おはようございます! 掃除ですか?」
「冗談はよしてくれ」
智子の隣に行き、下界を見下ろすと、そこに五十嵐の姿があった。挨拶をする。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
五十嵐が黒い傘から顔を覗かせた。
次の瞬間、響介は目を疑った。五十嵐が微笑を浮かべたのだ。それには智子も驚いたらしく、三人に沈黙が落ちた。悪天候に生気を奪われたように色を失った景色に、雨音がこだまする。
ふと既視感を覚え、記憶のフィルムを巻き戻す。……わからない。けれど得体の知れない後味の悪さのようなものが広がってくる。
気付くと、五十嵐は姿を消していた。智子はドアの前に戻り、鍵を掛けているようだ。その背中を注意深く観察する。彼女が背負っている楽器ケース。あれは、エレクトリックベースだ。
「響介、駅に行くの?」
振り向き様に智子が尋ねた。『カデンツァ吉祥寺』の最寄り駅は京王井の頭線の三鷹台駅だが、おそらく吉祥寺駅のことだろう。
「いや、反対方向だ」
「じゃあ、先行くね。──そうだ。明日はバイトが休みだから、部屋見せて」
「いいよ」
響介は一度部屋の中に戻った。ズボンの右のポケットからポールモールとライターを、そして取り出した。
響介が働く早番の時間帯は二人制ということだったが、店長の他にスタッフは一人しかいなかった。
「こちら、手島さん。早番をやってもらっていて、ベテランです」
店長がそう言って、一人、フロントに立っていたスタッフを紹介する。「ベテラン」は、あまり似つかわしくない言葉だな、と思う。手島夕起は若かった。おそらく同年代、ともすれば年下かもしれない。
「今日から働かせてもらいます、西川です。よろしくお願いします」
「どうも。手島です」
小柄な体格に相反する低い声。アルトサクソフォンを連想させて耳に心地よい。思わず顔を見つめてしまう。その顔立ちもまた、切れ長の目と丸みを帯びた鼻が特徴的で、さりとてちぐはぐな印象はなく、不思議な魅力を感じた。会話してみたいな、と思ったが、挨拶が済んだのを確認した店長が「じゃあ、行きましょうか」と踵を返した。今出てきたばかりの事務室の前に戻る。
「お浚いになるけど、ここが事務室ですね。それから──」
店長の傍らを歩きながら、店内を一周する。アルバイトの最初の二週間は研修期間で、このように店長と常に行動を共にするようだ。