カムイ
加代・・再会、そして戻らぬ時間
明治2年(1869年)、『蝦夷』は『北海道』と名を改め、地の利が良いことから目を付けられた札幌は、豊平川を中心として開拓が進められていた。
豊平川の両側はクマザサと雑木におおわれた荒野であったが、新政府は扶持を無くした浪人や農夫、浮浪者を募集し、日本全国から多くの人々が新天地に希望を求めて集まった。
しかし、冬になると半数以上の人は、亡くなるか寒さに耐えられずに逃げ去っていく。
戊辰戦争終盤となる東北戦争で敗れた仙台藩・会津藩など、賊軍のレッテルを張られた士族団は、こぞって開拓団として入植した。
会津28万石は下北半島の斗南3万石に移封され、家臣団が生きていくにはほかに選択肢がなかったのである。
『譜代の家臣こそ立派な資本(もとで)、去るも地獄残るも地獄』
という言葉を残している。
移住者が発った後、それぞれの住み慣れた家にはチリひとつなく掃き清められ、床の間には一幅の軸と一輪の花が飾られていた、という。
これぞ、武士の有終の美、というものであろうか。
会津士族団が新政府から指定されたのは、札幌から西へ50キロ離れた、余市である。