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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】 Ⅳ・完結

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 五日後、紗英子は再びS市のエンジェル・クリニックに赴いた。
 有喜菜は三階の右端の部屋にいた。今回は特に特等個室ではなく、ごく一般的な個室である。
 軽くノックしても返事がなかったため、紗英子はドアを開けた。
 有喜菜は既に歩行もできるようになっており、そのときはベッドの上に身を起こしていた。
 傍らに小さなコットが置かれている。中を覗き込むと、赤ん坊がすやすやと寝息を立てていた。
「今回は色々と大変だったわね。でも、お陰で元気な子どもが生まれたわ。本当にありがとう」
 その後で代理出産の報酬は今日付で有喜菜の指定口座に振り込むことを告げた。
 他にかけるべき言葉は何もなかった。
 ともすれば、烈しい感情が殻を破って暴れだそうとしている。気を許せば、夫を奪った女、約束を破った卑怯者と罵倒の言葉を投げつけてしまいそうな自分が怖かった。
「約束を果たせて良かった。これで、私の役目も終わったのね」
 有喜菜は淡々と言い、視線を動かした。
 その先は赤ん坊に向かっている。
「この子はあなたに返すわ。だから、彼を私にちょうだい」
 有喜菜は紗英子の方を見ようともしないで言った。
「報酬も要らないから」
「子どもと報酬の代わりに、彼を渡せというの?」
 その時、有喜菜が初めて紗英子を見た。
「別にそんなつもりはないわ。ただ、彼が言っていたの。私たち―むろん、紗英と直輝と私、三人のことだけど―は、きっと進むべき道を間違ったんだろうって。間違いに気づいたならば、今からでもそれを正すべきだってことも」
「彼が私を選んだのが間違いで、あなたを選ぶべきだったとでもいうの?」
 興奮と屈辱に、つい声が上擦った。
「怒らないで。大きな声を出したら、赤ちゃんが起きてしまうわよ」
 ムキになる紗英子とは反対に、有喜菜は至って落ち着き払っている。
「誰もそんなことを言っているのではないの。それに、何が正しくて間違いだったかなんて、それこそ天の神さまにしか判らないでしょう。ただ」
 有喜菜は言いかけ、口をつぐんだ。紗英子から視線を剝がし、ベッドの側―窓越しに何かを見ている。
「ただ?」
 沈黙に堪りかねて問うと、有喜菜は視線を窓の外に投げたままで呟いた。
「ただ、判っているのは、二十四年前、あなたが直輝を好きだったように、私も彼を好きだったっていうこと」
 そのひと言に、紗英子は鋭く息を呑んだ。
 やはり、有喜菜も昔、直輝を好きだったのだ! 
 そして、何を今更と嗤う。有喜菜が彼を好きだということなど、とうに自分は知っていたはずだ。知っていて、気づかないふりをしていた。いや、正確にいうと、事実を認めるのが怖かったのかもしれない。でも、本当に気づいていないのなら、有喜菜に好きな男がいると直輝に嘘をついてまで、彼を奪ったりはしなかったはずだ。
 五分後、紗英子は赤ん坊を抱いて部屋を出た。有喜菜は帝王切開なので、あと数日は入院して経過を見るが、赤ん坊の方は至って順調そのものであり、特にこれ以上の入院の必要はないという。
 つまり、今日、紗英子は我が子を連れて晴れて家に戻るのだ。
 病室を出て一歩踏み出したその時、紗英子の中でストンと落ちてきたものがあった。
 あの横顔。先ほど、病室で有喜菜が横を向いたときに見せたあの表情は紛れもなく、夢の中で見た謎の女に違いなかった。直輝の上に全裸で跨り、淫らに腰をくねらせ、喘ぎ声を上げていた女。
 そして、紗英子は一年前にも、五日前に見たのと殆ど同じ夢を見ている。
 五日前の夢では、女は顔を見せなかったけれど、一年前に見た夢では、後ろを向いていた女が一瞬、紗英子を振り返ったことがある。あのときに見た顔は、確かに今日、病室で見た有喜菜の表情と一致していた。
 淫夢で見た女の顔は有喜菜だった。いつかの淫らな夢が現実になったのだ。紗英子は今、あの夢はやはり予兆であったのだと悟った。
 直輝と有喜菜は、紗英子の知らない間に、既に結ばれていたのだ。何の根拠もないことだが、この時、紗英子は理解した。
 それは妻、いや元妻であった女特有の勘とでも呼べば良いかもしれない。或いは同じ男を軸に有喜菜と二十四年もの間、ずっと牽制し合ってきた女の勘?
 いつ二人が再会し、どんな形で関係を持つようになったのかは知らないけれど、二人が既に引き離せない関係にあることだけは判った。恐らくは紗英子の推察どおり、有喜菜から直輝に真相を告げたに違いない。
 だが、すべてはもう終わったことだ。今更、有喜菜を裏切り者と責めたところで、壊れた関係が修復できるものではない。
 第一、二十三年前、自分が嘘をついて直輝を奪ったそのときから、悲劇は既に始まっていたのだ。まさしく、最初に裏切りと呼べる行為に走ったのは、この自分だった。紗英子の中で果てのない虚無感が押し寄せ、ゆっくりひろがっていく。
 紗英子は腕に抱えた赤ん坊を抱き直した。
 愛おしく何よりも大切なはずの我が子が何故か、急に疎ましいものに感じられた。子どもをこの手に抱けるのなら、何を引きかえにしても良いとまで思った。
 待望の子どもをやっと得たというのに、胸にひろがってゆくこの喪失感は一体、何なのだろう。
 
 一階まで降り、受付で子どもを連れて帰ることを告げて外に出た。
 玄関から続く庭を歩いていく中に、紗英子の眼に映じたグラジオラスの花が涙にぼやけて滲んだ。
 そのままぼんやりと歩いていると、ふいに腕の中の赤ん坊が泣き出した。
「あらあら、どうしちゃったの?」
 紗英子は狼狽え、赤ん坊を揺すり上げる。出産に備えて育児書はたくさん読んで知識は詰め込んだつもりだけれど、実践が伴わないのだ。
「ええと、まずは襁褓、それからミルク―」
 育児雑誌でたたき込んだ知識を総動員しかけたその時、向こうから若い看護士が歩いてくるのが見えた。顔見知りなので、挨拶する。
「こんにちは」
「まあ、こんにちは。そうかー、今日、赤ちゃんの方は退院なんですね」
 看護士は丸い顔をほころばせた。
「色々とお世話になりました」
「いいえ、でも、本当に良かったですね。赤ちゃん、大切に育てて上げて下さいね」
「はい」
 紗英子は頭を下げた。
「元気で大きくなるのよ」
 看護士は紗英子から赤ん坊を抱き取った。不思議なもので、看護士に抱かれた途端、赤ん坊は泣き止んだ。
「あら、泣き止んだわ」
 眼を丸くする紗英子に、看護士は微笑んだ。
「赤ちゃんはとても敏感なんですよ。弱い存在だから、余計に身の危険を察知するところがあるというか。矢代さんはまだ赤ちゃんの抱っこには慣れてないでしょう。だから、抱き方でそれを感じて、不安になって泣いちゃう。大丈夫ですよ、新米お母さんは皆、同じようなものですから。少しずつ育児をしていく中に、上手な抱っこの仕方も判るようになってきます」
 看護士はおくるみに包まれた赤ん坊を紗英子に返した。
「でも、この子、本当にお母さんによく似てますね」
「お母さんって、私のこと?」
 紗英子がきょとんとするのに、看護士は笑う。
「当たり前ですよ。この子のお母さんっていえば、矢代さんしかいないじゃないですか」
 その科白は紗英子の心をついた。
 この子のお母さんといえば、私しかいない。