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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】 Ⅳ・完結

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「自分が今、どれほど残酷なことを口にしているかは判っている。だが、俺たちはもう終わりだ。俺は今度のことでつくづく思ったよ。俺とお前の望むものはあまりにも違いすぎる。俺が犯してしまった罪といえば、そのことにもっと早く気づくべきだったということだ」
 紗英子は縋るような眼で夫を見た。
「どうして、どうして、そんなことを言うの? やっと、やっと子どもに恵まれたのに。私たち、赤ちゃんが生まれて、これからまた新しくやり直せるんじゃなかったの?」
「無理だ。俺はもう、お前とは歩いていけないよ」
 苦渋に満ちた顔で断じた夫が紗英子はまるで見知らぬ他人のように思えた。刹那、彼女の中で閃くものがあった。
「有喜菜、有喜菜ね? あの子が代理母だっていうことを自分からあなたに告げたのね。あれほど直輝さんには話さないでって頼んでおいたのに、あの裏切り者、泥棒猫!」
 口汚く罵る紗英子を、直輝が哀れむような眼で見つめた。
「止さないか。有喜菜のことは俺たちの離婚には一切関係ない。確かに俺は」
 そこで、直輝はひとたび言葉を句切り、うつむく。そのままの体勢で言葉短く告げた。
「俺は有喜菜を必要としている」
 その言葉に、紗英子はカッとなった。夫はあくまでも紗英子を見ようとはしない。
「有喜菜は必要としていて、私はもう必要ではない、つまり用済みっていうことなのね? あの女は自分が代理母だって告げて、あなたの気を引いたんだわ」
 直輝の声にやりきれないものが滲んだ。
「彼女は生命賭けでお前の子どもを生んでくれた恩人だろう」
「私の子ども? 私一人の子どもだっていうの! あの子は、あなたの子どもでもあるのよ?」
 激した口調で言い募るのに、直輝は頷いた。
「それは判っている。生まれてくるまでは愛情が持てるかどうか自分でも不安だったが、こうして、生まれてきた子どもを見ていると、愛おしいと心から思えるよ」
「じゃあ、何故? どうして、別れようなんて言うの? あなたは自分の血を分けた子どもを棄てるというの」
 直輝がゆっくりと首を振った。
「たとえ代理出産で生まれた子どもではなくても、子どもがいながら離婚する夫婦はたくさんいる。考えてごらん、互いに情の通い合わない両親の下で育つ子どもが果たして幸せといえると思うかい?」
「―」
 その科白に、紗英子は息を呑んだ。
 夫の顔を見ても、その整いすぎるほど整った面には最早、何の感情も浮かんではいない。その事実が何より物語っていた。既に直輝の心は自分から離れてしまっていることに―。
 そして、紗英子は気づいたのだ。このすべてを諦め切ったような哀しげな静けさは、かつて、有喜菜が紗英子に見せたものに似ていると。
 妊娠が判った日、有喜菜が湖にはるかな視線を向けながら、ひっそりと纏っていた静謐さに通ずるものがあった。もしかしたら、直輝と有喜菜はとても似た者同士なのかもしれない。魂の奥深い部分での同士とでも言えば良いのだろうか。
 やはり、直輝の側にいるべきだったのは、この自分ではなく有喜菜であったのか。
 紗英子はもう、どれほど言葉を尽くそうと、夫の心を取り戻せないことを知った。
「子どものこれからの養育費はもちろん、俺がすべて負担する。お前が生んだというのならば、認知もできようが、残念ながら、今のこの国の法律ではそれも認められない。だが、たとえ戸籍上は赤の他人でも、この子が俺の子どもだという事実は変わらないし否定するつもりもないんだ。それだけは理解して欲しい」
 去ってゆく直輝にできることは、それが精一杯だと判っていた。彼は彼なりに最後まで誠意を尽くそうとしているのだ。不実な男であれば、代理出産は紗英子一人が勝手に行ったことと言い逃れて知らん顔もできるのだから。
「判ったわ」
「じゃあ。俺はもう行くよ」
 直輝が踵を返そうとするのに、紗英子は早口で声をかけた。
「赤ちゃんは、赤ちゃんを抱いてはいかないの?」
 直輝の歩みが止まる。彼は首だけをねじ曲げるようして振り返った。
「抱いてしまえば、余計に別れの辛さが身にしみる。いつか、もし許されるなら、その子が大人になった時、俺と対面させてくれ」
 直輝の眼には光るものがあった。泣いているのかもしれない。
 今度こそ、彼が背を向ける。大好きだった彼が、十二歳のときから今までずっと見つめ続けてきた彼が、私から去ってゆく。
 紗英子は大声で泣きわめき、直輝を引き止めたい衝動と必死に闘った。
「有喜菜と―結婚するの?」
 最後にこれだけは訊いておきたいと声をかけた。
 直輝はまたしても立ち止まったが、今度は振り返らず向こうを見たままで言った。
「今はまだ、はっきりと決めたわけではないが、多分、そういうことになるだろうと思う」
 曖昧な口調でぼかしたのは、紗英子の気持ちを推し量ってのことだろう。直輝は昔から一本気なところがあった。こうと目標を決めたら突き進むような性格なのだ。
 やがて廊下の角を曲がり、直輝は永遠に紗英子から去っていった。
 もう多分、彼と逢うことは二度とないだろう。紗英子は自分に歓びをもたらしてくれたはずの赤ん坊から視線を逸らし、直輝が去ったのは別方向へと歩いていった。

 その日は一旦、N町のマンションに戻った。有喜菜はまだ面会謝絶で、逢えるような状態ではなかった。輸血もしたとかで、数日は安静が必要だと担当医から説明を受けた。
 有喜菜に逢うまでに数日の間を持てるのは、紗英子にとっても幸いなことであった。今日、直輝に別離を切り出されたままで逢ったとしたら、きっと有喜菜をとことんまで責め、罵倒してしまったに違いない。この数日間で、紗英子も自分なりに今の状況を把握し、受け容れることが幾ばくかでもできるはずだ。
 当然ながら、マンションに直輝の姿はなかった。予め覚悟していたことではあるけれども、まだ一縷の希望に縋っていたのに、それもすべては粉々に打ち砕かれた。
 クローゼットからは、直輝のめぼしい衣装はすべて消えていた。紗英子が帰宅するまでに彼もこちらに戻り、身の回りのものを整理して持ち出していったのだ。
 紗英子は未練がましく、まだ希望的観測を抱いていた自分を嘲笑った。
 かつて夫婦で使っていた寝室に脚を踏み入れると、紗英子のベッドの上に腕時計が置かれていた。凜工房の時計、紗英子が去年のクリスマスに結婚記念日の祝いを兼ねて彼に送ったものだ。
 思えば、あれはまだほんの一年前にすぎない。去年のクリスマス・イブの夜、二人だけでささやかなパーティをし、プレゼントの交換をした。その後で、直輝は情熱的に紗英子を求め、二人は幾度も愛を交わした。
 たった一年が過ぎただけだというのに、自分はひとりぼっちになってしまった。
 一体、自分の何がいけなかったというのだろう。我が子を持ちたいと願い、代理出産を選択したことが、大切な夫を失わなければならないほどに悪かったのだろうか。
 広いベッドに置き去りにされた時計が彼の決意を何より象徴している。
 紗英子は夫がいつも寝ていた傍らのベッドに身を投げ出し、すすり泣いた。シーツからは夫が好んで使っていたコロンの香りがした。樹木を思わせるような爽やかな香りが紗英子は大好きだった。