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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】 Ⅳ・完結

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「三日前にクリニックで健診を受けたときは、何も問題はなかったのよ? 赤ちゃんも有喜菜も元気そのものだって言われたのに。なのに、何で、何で、有喜菜がそんなことになっちゃったの?」
 そこで初めて紗英子は自分が取り返しのつかない失態を犯してしまったことを知った。
 一瞬、後ろめたさに視線が泳いだ。夫の顔がまともに見られない。急いで何か取り繕う言葉を探してみたけれど、こんなときに限って、頭はまるで考えることを停止してしまったかのように働かない。
 怖々と顔を上げると、じいっとこちらを見つめている夫と眼が合った。
 短い、けれど一生分にも思える沈黙が二人の間に流れた。その危うさを孕んだ沈黙を破ったのは、直輝の方であった。
「俺はもう、知っている」
「―え?」
 刹那、紗英子は夫の言葉の意味を理解できず、次の瞬間には、心臓がそのまま凍りついてしまうのではないかと思った。
「知っているって、まさか、あなた―」
 それから先、言葉は続かなかった。動転しきっている紗英子とは裏腹に、直輝は落ち着いた口調で言った。
「とにかくS市のクリニックに急ごう。今は、そちらが先だ」
―俺はもう、すべてを知っている。
 先ほどの直輝の言葉が紗英子の心を射貫くようだった。
 取り急ぎマンションを出てN駅に向かい、電車に乗った。S市まで片道二時間を要する。急行の二人がけの座席に並んだ夫はクリニックからの電話の内容をかいつまんで説明した。
 昨日深夜に、有喜菜がにわかに産気づいたこと。しかし、当人も規則的に襲ってくる激痛が普通ではないと気づいたらしく、携帯で救急車の出動を要請した。
 駆けつけた救急隊員は急を要すると判断、近くの総合病院へ運んだものの、そこで〝常位胎盤早期剥離〟と診断された。 
「常位胎盤早期剥離ですって?」
 紗英子は唇を戦慄かせた。だてに子どもを望んでいたわけではない。出産経験はなくても、その言葉の意味するものがどれほど危険かという知識くらいはあった。
 常位胎盤早期剥離。その名のごとく、胎盤が出産を待たずして先に剥離、つまり、剝がれ落ちてしまうことをいう。この場合、早急に手を打たねば、胎児はもちろん、当の妊婦までもが大量出血をきたし、死亡に陥る。
「どうして、そんなことに―」
 紗英子はやり切れない想いで涙ぐんだ。紗英子の心中など頓着しないかのように、直輝は極めて事務的な口調で続ける。
「通常であれば、大病院だから十分、こっちでも対応できるが、今回は代理出産という特異なケースだ。だから、プライバシーや生まれた子どもの親権問題も絡めて、S市のクリニックの方で出産した方が良いという見方だったらしい。それでも、妊婦本人が望めば、当人や胎児の安全を最優先させて、そのまま出産ということもできた。だが、有喜菜は―代理母はS市のクリニックで出産することを望んだ。自分の生命は二の次で良いから、生まれてくる子どもの生命、更に子どもを待ちわびる実の両親のためにも、最後まで代理出産を依頼した家族のプライバシーは守りたいと」
「あ―」
 紗英子は声をつまらせた。生まれてくる子どもの生命と子どもを待ちわびる家族のプライバシーは守りたい。有喜菜はそう言ったのだ。
 ああ、有喜菜。お願い、死なないで。
 その時、紗英子は初めて有喜菜の無事を願った。生まれてくる子どもと、代理出産を依頼した自分たちを生命賭けで守ろうとしてくれている彼女を思い、涙したのだった。
 夫が何故、有喜菜が代理母であることを知っていたのか? それについての疑問と衝撃は依然としてあったけれど、今はもう、それどころではなかった。
 今はただ、生命を賭けて新しい生命をこの世に送り出そうとしている友の許へ駆けつけたかった。

 S市のエンジェル・クリニックに到着した時、既に夜は明けていた。始発を待って乗り込み、S駅からはタクシーを飛ばしても、時間は八時を回っていた。このときはもう有喜菜の出産は終わっていた。
 未明にドクター・ヘリでN町の総合病院からS市のクリニックに搬送された有喜菜は直ちに帝王切開の手術を受けた。
 処置が適切で何とか間に合ったこともあり、手術は無事に終わり、母子共に異常はないと聞かされ、紗英子の眼に涙が溢れた。
 不妊治療を受ける患者は別棟の不妊治療外来に行くが、妊娠確定後も一般の妊婦たちと同じ扱いではなく、従来の不妊治療外来で経過を診る。特に代理出産のようにデリケートでプライバシーの守秘を厳重にする必要がある場合は、こちらですべてが行われる。
 しかし、それも出産から後は一般の産婦人科病棟に移り、一般のお産と同じように扱われた。
 新生児室は、その一般病棟の三階にあった。向かいにナースステーションが見え、新生児室は全面がガラス張りの窓になっており、来院者たちからも内部の様子が見られるようになっている。
 今もたくさんの赤ちゃんたちがコット(移動式のベビーベッド)に寝かせられている。大声で泣きわめく強者や、すやすやと寝入っている落ち着き屋もいて、生まれたての赤ちゃんとはいえ、人間というものは、こうまで早々と個性を持っているのかと愕かされる。
 紗英子は若い看護士に案内され、ガラス張りの窓に近づく。向かって最奥から二番目、ピンクのベビードレスを着ているのが紗英子の―いや、紗英子と直輝の子どもであった。
 コットの前面には〝宮澤有喜菜様 出生 2013.11月10日 A.M.5:06〟とプレートに書いてある。赤ん坊の小さな手首には女の子であることを示すピンクの腕輪がはめられていた。
 やはり、建前上、この子の母親は有喜菜ということになっているが、それはこの際、問題ではなかった。
 現行の日本の法律では、この子を紗英子と直輝の実子として戸籍に入れることはできないのだ。でも、そのことは承知で代理出産という道を選択したのだから、悔いは一切ない。
 ピンクの小さなカバードレスがそれでもまだ大きく見えるほど小さな赤ん坊は出生体重、2,700gと記されていた。体長は48.5㎝。
 顔はこれもまた、ぶかぶかのピンクのニット帽を被らされているので、定かではないけれど、紗英子というよりは直輝に似ているように見えた。特に眼許などは写し取ったように直輝に似ている。大きくなったら、さぞかし綺麗な子になるだろう。
 紗英子がガラス越しの我が子との対面に感慨深く浸っていたその最中、直輝が近づいてきた。彼はただ黙って横に並んで赤ん坊を眺めていた。
 紗英子はある種の期待に満ちた気持ちで夫を振り返り、見上げた。
 これですべてがうまくいく。長い間、欲しいと願っていた我が子を授かり、自分たち夫婦は本来あるべき姿に戻ることができるだろう。
 紗英子は微笑み、明るい希望に満ちたまなざしを夫に向けた。しかし、次の瞬間、直輝の口から出たのは、世にも信じがたい科白だった。
「別れてくれないか」
 〝え〟と、紗英子は自分でも愚かしいと思えるほど、無防備な声を出した。直輝の静かすぎる表情にほんの一瞬、憐憫とも悔恨ともつかぬ別の感情が浮かび消えた。