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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】 Ⅳ・完結

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 中二になって同じクラスになってからというもの、紗英子は積極的に直輝にアプローチしていった。
 何事にも消極的で大人しく、いつもクラスの喧噪の片隅で縮こまっているような自分が何故、あんなにも積極的にふるまえたのかも判らない。それほどあからさまに直輝に近づいていった。
 例えば、休み時間にわざと数学の問題集を持っていって、〝ここが判らないの、教えてくれない?〟と訊ねてみたり、あるときは手作りの弁当を二人分持参してみたり。
 そんなある日、直輝に突然、訊ねられた。
―有喜菜って、誰か好きな男はいるのかな?
 あれは紗英子にとって思いもかけぬ爆弾発言であった。
―さあ? どうなのかしら。
 紗英子は愛らしく首を傾げながらも、心の中ではめまぐるしく思考を回転させていた。
 次の瞬間、紗英子は直輝に言ったのだ。
―あ、でも、そういえば、この間、有喜菜が言ってたっけ。F組の杉田君のことが一年の頃から、ずっと気になってたって。
 紗英子はあの時、直輝の顔色を上目遣いに眺めながら、さり気なく反応を見守った。そう、あくまでもさりげなさを装って。心に邪(よこしま)で醜い野心と嫉妬を隠していることなど、大好きな彼に気ぶりほども悟られないように。
 直輝は一瞬、整った顔を強ばらせ、信じられないといった表情で言った。
―本当なのか? その話って。
―それは判らないわ、でも、私も有喜菜から直接聞いたんだけど、どうなのかしらね。
 いつも歳の割には大人びて滅多なことで取り乱したことのない直輝が顔色を変えて、立ち上がった。
 彼はもう紗英子のことなど眼中にもない様子で、校庭から教室へと駆け戻っていってしまった。後には桜の樹の下に残された紗英子と、まだ殆ど手つかずの弁当二つ。その日のの朝、五時起きで紗英子が腕によりをかけて直輝のために作った弁当だったのに、彼は見向きもしなかった。
 あの時、紗英子は思ったものだ。有喜菜なんて、大嫌い。直輝が有喜菜を好きなのかどうかまでは判らなかったけれど、何か特別な感情を抱いているのは間違いない。
 さもなければ、有喜菜が他の男の子を好きらしい―と聞いただけで、血相変えて飛んでいくはずはない。
 その後、直輝がどうしたのかまでは知らない。でも、その翌日、焦りと妬心をひた隠し、紗英子は直輝に告白した。
 とはいえ、よもや直輝がそれを承諾するとは自分でも考えていなかった。サッカー部のエースであり、勉強も常にトップクラス、更にルックスも人気モデルに引けを取らない直輝。そんな彼に憧れ想いを寄せる女子生徒は圧倒的に多く、中には三年の美人の先輩が告白したなんていう噂まで立ったほどだ。
 それに引きかえ、紗英子は成績こそ、そこそこ上位にいつも名を連ねているものの、容色も何もかもがすべて平凡中の平凡だった。そんな垢抜けない自分が学校中の女子の憧れである直輝の心を射止めるなんて、できるはずがないと諦めていたのだ。
 しかし、現実には、直輝は紗英子の告白を受け容れた。
 紗英子はその日から、全学年女子の賞賛と羨望を浴びるようになった。今でさえ、紗英子は夫が何故、自分をあのとき選んだのか判らない。
 が、直輝が選んだのは結局、この自分であり、有喜菜ではなかった。彼が有喜菜を選ばなかったことに、紗英子のついたささやかな嘘が関係しているのかどうかまでは知らない。けれど、あれから既に気の遠くなるような年月が流れた今、紗英子がついた嘘など、時の流れという大河の底深く沈んでいった小石のようなものではないか。
 これだけの年月が経った今、二十三年前に、誰が何を考えていたかなんて、どうでも良いことだ。以前、流行った刑事物のドラマで、主人公の名刑事が番組の終わりにはいつも口にする決め科白があった。〝真実はいつか必ず明らかになる。他人を出し抜き、陥れ、罪を犯したからには、一生のうのうと生きられると思うな〟。
 とはいえ、紗英子は別に何の罪を犯したわけではない。ただ、小さな嘘を一つついただけ。
 しかも、もしかしたら有喜菜には本当にその頃、直輝ではなく別に好きな子がいたという可能性だって全くあり得ない話ではないのだから。
 だから、大丈夫。自分は何も悪いことはしていないのだし、怯える必要はない。そう言い聞かせてみても、何故か、後味の悪さは消えない。おかしいと思った。いつもなら忘れているような過去のささやかな嘘が、どうして今日はこんなにも鮮やかに記憶に甦るのか。
 昔のことを考えたから、こんな奇妙でおぞましい夢を見てしまったのだろうか。
 今や、すっかり霧が晴れた向こうで、全裸の直輝と女―どう見ても有喜菜にしか見えない―が抱き合っている。
 むろん、女の方も一糸纏わぬ生まれたままの姿で、下になった直輝に大きく両脚をひらいた格好で跨った女があられもない声を上げ続けている。
―いやっ、あんなもの、見たくない。
 紗英子は思わず両眼を固く閉じ、顔を背けた。
 幾ら眼を閉じても、紗英子には二人のイメージが嫌になるほど鮮明に浮かび上がるのだった。腰を烈しく動かす直輝と、彼の上に乗り、身をくねらせ、のたうち回る女と。
 いかにしても、その残像が瞼から消えない。
―お願いだから、こんな夢を見せないで。
 紗英子が泣きながら叫んだその時、はるか彼方から、周囲の空気を震わせるように電話が鳴っているのが聞こえた。その音は静寂を切り裂くように鋭かったが、今はこの悪夢から自分を連れ出してくれるなら、何でも良かった。

 紗英子はふと眼を開いた。早朝の冷たい空気を震わせ、枕許の携帯が鳴っている。
 まるで辛い責め苦から漸く解放されたような心持ちで、紗英子はゆっくりとベッドの上に身を起こした。ナイトテーブルの置き時計は今、やっと午前4:30を指していた。
 もう秋というよりは晩秋のこの季節、まだ外は一面の闇に閉ざされている。それは先刻、見たばかりの不吉な夢―あの夢に出てきた黒い霧を連想させた。
 紗英子は慌てて禍々しい予感を振り払う。一体、こんな時間に何事だろう。訝しく思いながらも、もしや有喜菜の身に何かあったのではという嫌な想像をしてしまった。
 有喜菜の出産予定日は十一月下旬である。確かに十一月も十日が近いから、もう生まれても良い時期には入っている。
 しかし、三日前に受けたS市のエンジェルクリニックの健診においても、まだまだ生まれる気配はないと告げられ、安心したような反対にもどかしいような想いで帰ってきたばかりなのだ。
 紗英子がなかなか電話に出ないので、傍らのベッドで眠っていた直輝が先に出たようである。
「もしもし」
 まだ眠さの残るけだるげな声で応対していた夫の声が突如として一転した。
「はい、はい。判りました。すぐに行きます」
 直輝は早口で言い終えると、携帯を握りしめている。その横顔には、かつて見たこともないほど切迫したものが漂っている。
「あなた、どうかしたの?」
 恐る恐る訊ねると、夫は低い声で応えた。
「産気づいたそうだ。どうも尋常な様子ではないらしい」
 〝誰が〟と主語は略しているけれど、直輝が〝代理母〟のことを言っているのはすぐ判った。
「そんな。尋常じゃないって、どういうこと?」
 紗英子は夫に噛みつくように迫った。