天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅲ
有喜菜の微笑はやわらかでいながら、どこか果てのない哀しみを湛えているようにも見えた。それは昔、直輝が見た美術の教科書に載っていたモナリザを彷彿とさせる。
直輝は元々、真っすぐな気性だ。彼は義憤に駆られながら言った。
「君にはできるだけのことをさせて貰うよ。約束どおり、紗英子には今日の話は一切しないが、出産までもその後も、必要な援助はするから、遠慮なく俺を頼ってくれ」
これまで直輝は、代理母のことなんて考えたこともなかった。これは紗英子が勝手にすることで、自分にはあくまでも関係のないことだと思っていた。
むろん、万が一にも治療が成功して赤ん坊が生まれたときには、血縁上の父親として果たす義務は最低限は果たそうという気持ちはあった。
が、高度すぎる治療だし、所詮はただの一度きりで子どもができるとは正直考えていなかったというところだった。生まれてきた子どもの養育費くらいは出すが、代理出産に拘わった見も知らぬ女のことまでは考える必要もない―というよりは、考えたこともなかった。
しかし、代理母が親友の有喜菜だというのなら、話は別である。有喜菜は直輝にとって、大切な子どもの頃からの友人であった。その友人に自分の妻が非常識な代理出産を持ちかけ、結果として有喜菜は妊娠した。しかも、その子どもは他ならぬ直輝自身の子なのだ。
直輝は初めて感慨に囚われて、有喜菜のまだ全く膨らんでいない腹部を見た。本当に話が嘘ではないかと思いたくなるほど、有喜菜の腹は平坦に見える。
「本当に妊娠してるのか? まだ、全然大きくないぞ?」
有喜菜が笑った。
「まだ三ヶ月なのよ、そんなに大きくなるはずがないでしょう。でも、最近、ちょっとだけお腹が出てきたかなっていう自覚はあるのよ」
「ほ、本当か?」
思わず手が伸び、有喜菜のドレス越しに触れていた。
「あ、ごめん」
直輝は紅くなって、まるで火傷したかのように手を引っこめる。有喜菜が笑いながら言った。
「良いのよ。良かったら、触ってみて」
有喜菜当人の許可を得て、直輝はそろそろと再び手を伸ばした。今度はゆっくりとドレス越しの腹を撫でてみる。確かに、よくよく気をつけなければ判らないほどであるが、ふっくらと盛り上がりかけている。
「あ―」
直輝は声を上げ、言葉を失った。
ここに、このほんの少し膨らみかけた有喜菜の腹の中に、俺の子がいる。俺の、俺の血を分けた我が子が育っている。
直輝の胸に熱いものが込み上げた、不覚にも涙が出そうになり、彼は慌てて横を向いた。
そのときだけ、彼は紗英子が何故、あそこまで我が子を得ることに狂騒しているのか少しだけその心が理解できたような気もした。
しかし、それで、大切な有喜菜を非情にも利用したことを許せるかといえば、また別の話である。
「有喜菜、ありがとう」
知らず、そんなことを口走っていた。
「身体を大切にして、無事に身二つになってくれ」
照れくさかったので、早口で告げた。
そんな直輝を、有喜菜は謎めいた微笑を湛えて見つめている。
マスターの姿は、いつしか消えていた。控え室のようものがあるから、気を利かして、そこに籠もったのだろう。
普段から、客の身の上相談には快く応じるが、けしてマスターの方から踏み込んでくることはない。それがこの店の人気の秘訣なのだ。
その後、二人は一時間ほど他愛ない話をしてから、店を出た。直輝はタクシーで有喜菜をマンションの前まで送り届けた。
「少し寄っていく? コーヒーでも淹れるけど」
その魅惑的な誘いに思わず頷いてしまいそうになりながら、直輝は意思の力を総動員して断った。
「いや、良いよ。今夜はもう遅いから。君も疲れたろうから、ゆっくり寝んでくれ」
「そう? 判った、じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
直輝は後ろ髪を引かれる想いで、有喜菜に背を向ける。
タクシーに再び乗り込むと、初老の運転手は無言で発車させる。この歳まで、一体いかほどの客を乗せて走ったのだろう。
見知らぬ他人の長い果てのない人生をほんの一瞬だけ、共有するタクシー運転手と乗客。しかし、運転手は何があっても客の人生に立ち入ることはないし、見て見ないふりをする。
直輝はいつしか運転手から意識を逸らし、車窓を流れては消える夜の町を無表情に眺めた。
舗道沿いに植わった桜並木が今、盛りを迎えようとしている。いつしか鈍色の空からは滴が落ち始めていた。
この雨で桜もかなり散るだろう。
雨に濡れ、しっとりと雨露を帯びた薄紅色の花びらは、何故か有喜菜の見たこともない裸身を想像させる。
一糸纏わぬ姿で真っ白なシーツに横たわった有喜菜は、さぞかし美しく、この上なく淫靡に違いない。その白い素肌の上に露を落とすように、熱い口づけを落とせば、白い透き通った肌はほのかな桜色に染まるのだろうか。
その様を、この眼で見てみたい。いや、見るだけでは足りない。唇で指先で存分に味わってみたい。
しっかりしろ、俺。
彼は自分を叱咤した。たまたま有喜菜が代理母になって俺の子を妊娠しただけの話じゃないか。
何もだからといって、俺と有喜菜が関係したわけでもないし、俺たちの関係が何か特別なものに変化したわけでもない。
その辺りをしっかりと認識しておかなければ、後々、取り返しのつかないことになる。
直輝は自分を必死で自制していたが、既にそのようなことを自分に言い聞かせること自体、自分が普通の精神状態ではないと気づくべきだった。
何も紗英子だけが無邪気な仮面を被っているわけではないのだと知った方が良かったかもしれない。女はいつの時代でも、どんな女でも魔性をその奥底に秘めている。
そして、愚かな男はそんな女に騙される。
いや、騙すというよりも、本当に欲しいものを得ようとする時、女は男よりもはるかに利口にしたたかになるのだと、自分の置かれた境遇をも最大限に活用するのだと。
その夜、直輝は玄関まで迎えに出た紗英子の顔をまともに見る気もしなかった。
俺をまんまと騙していると思っているんだな、この女は。
今、この瞬間も、紗英子は代理母が有喜菜であることを俺が知らないと信じ込んでいる。今、ここで洗いざらいをぶちまけ、この女を罵ってやりたいが、有喜菜との約束がある。
―最後まで知らないふりを通してね。
有喜菜の懸命に訴える様子はいじらしかった。あんなに必死な様を見せられては、到底、約束を破れるものではない。
「お夕飯は? 良かったら、すぐに温め直しましょうか?」
窺うように問われ、思わず怒鳴ってしまった。
「要らないと言ってるだろう!」
あまりの剣幕に、紗英子が震え上がるのが判った。一瞬、後悔したものの、この女が有喜菜に対してした仕打ちを思えば、たいしたことではないと思い直す。
最近、紗英子はいつも直輝の顔色を見てばかりいる。おどおどとして、それが余計に直輝の癇に障り腹立たしく思えるのだった。
一度、噛み合わなくなった歯車は努力して直そうとしても、余計に噛み合わなくなるばかりだ。少なくとも、紗英子の方は、直輝とうまくやろうと努力していることは直輝にも判る。
しかし、今更、それが何だというんだ。
俺はすべてを知ってしまった。
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅲ 作家名:東 めぐみ