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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅱ

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 あろうことか、受精卵を代理母の子宮に戻す治療は第一回めで成功したという。直輝はどこかで高をくくっていた。体外受精というだけでも難易度が高く、ましてや代理母出産というのはその中でも最高峰といっても良いほどの難しい治療になる。
 まず一度で成功することはないと聞いていたから安心していたのに、何と代理母はその一度目で妊娠した。むろん、すべて紗英子から聞かされた事後報告ではあったが。
 紗英子から決意を聞かされた当初、直輝はあくまでも精子は提供しないと主張した。しかし、紗英子が包丁を持ち出して自殺の真似事までするに及んで、これはもう引くに引けないところまできてしまったのだと悟った。
 あの時、直輝が承諾しなければ、紗英子は真似事どころではなく、本当に包丁で喉をかき切っていただろう。あの瞬間、妻はとうとう狂ってしまったのだと思わざるを得なかった。そして、静かな諦めが直輝の心の中にひろがっていった。思えば、あのときから、自分の心は妻から離れていったのだ。
 眼の前で死なれては堪らないから、一度だけという条件付きで承諾したのに、何ともはや運命とは皮肉なものだ。どこの誰とも知らぬ代理母はそのたったの一度で身籠もったとは。
 確かに紗英子の主張するとおり、代理母の胎内に宿った子どもは血縁的にも直輝と紗英子の子どもだ。今の日本の法律では自分たちの実子とは認められないかもしれないが、誰が何と言おうと、我が子であることに変わりはない。
 しかし、血縁的には親子であろうが、自分がその子どもを我が子として受け容れられるかどうかと問われれば、NOとしか応えようがなかった。直輝の考えでは、たとえ百パーセント自分の遺伝子を持っていようが、第三者の女性の胎内を借り腹として生まれてきた子どもは、あくまでも自分の遺伝子を持った他人にすぎなかった。子どもとは本来、男女が愛情を高め合った上での親密な行為の果てにできるものなのだ。
 たとえ、自分の考えがどれほど理想論すぎると笑われても、直輝はその考えを変える気は毛頭ないのだ。自分の気持ちが判っているからこそ、直輝は紗英子を止めた。紗英子は恐らく、生まれてきた赤ん坊を見れば直輝の気持ちも変わるだろうと希望的観測を抱いているのだろうが、恐らく、それはあり得ない。
 結局、不幸なのは生まれてきた子どもではないか。人為的操作を施され、この世に誕生させられた小さな生命を、直輝は父親として認め慈しんでやることはできない。母親である紗英子は溺愛するではあろうが、その子を得ようとしたそもそもの出発点が間違っている。
 自分たち夫婦がこの先、どうなってゆくのが実のところ、直輝自身にも判らなかった。紗英子が代理母出産を諦めてくれさえすれば、まだまだやり直しはできたはずなのに、幸か不幸か一度目の治療で代理母が妊娠したことが、自分たち夫婦を二度と寄り添えぬ関係にしてしまった。
 紗英子から贈られたこの時計も実をいえば、外してしまいたい。しかし、それをしてしまえば、自分たち夫婦の仲は本当におしまいなのだと判っているから、できないでいた。
 直輝は三度目の溜息を盛大につき、心もちネクタイを緩めた。
 その時。内線が鳴り響き、直輝は眉を顰めて電話を取った。
「もしもし」
「矢代課長、外線三番にお電話です」
 どこか舌っ足らずな口調なのは、受付課の小泉満奈美に違いない。
「ああ、判った」
 直輝は事務的な口調で言った。
 と、急に満奈美の口調が馴れ馴れしいものへと変わった。
「課長も隅に置けないんですね。女性の方ですよ、電話」
「君には関係ない話だろう」
 直輝は努めて冷淡に断じる。この小泉満奈美という女には手を焼いていた。
 直輝は社内でもかなりモテる方であった。別に自分で言っているわけではなく、どうやら同僚たちの噂では、そのようなことになっているらしい。自分のどこが良いのか判らないが、若い女子社員の中では〝社内で不倫してみたい、抱かれてみたい男〟のナンバーワンだとか。
 それを聞いたときは、馬鹿らしいと思った。学生ではあるまいし、何を呑気なことを考えているのかと一笑に付したものだったが、時折、独身の女子社員から手紙やプレゼントが届いたり、時には呼び出されて告白されたりするのは迷惑も良いところだ。
 小泉満奈美はその中でも特にしつこい女で、直輝が何度断っても、懲りずに秋波を送ってくる。一度は
―元彼にしつこくストーカーされてて、困ってるんです。
 などと言い、相談に乗って欲しいと会社近くの居酒屋に呼び出された。が、実際に行ってみれば何のことはない、そんな話は根も葉もない真っ赤な嘘で、真実は満奈美が直輝の気を惹いて二人きりで逢うための口実にすぎなかった。
 そのときはまさか顔を見るなり帰るわけにもいかず、二時間くらいは渋々付き合ってやった。それに味をしめたのか、満奈美は断れども断れども大胆なアプローチをかけてくる。
 すっかり辟易している直輝に同期の同僚などは
―何だ何だ、据え膳食わぬは男の恥だぞ? あの小西って子、名前だけでなく本当に女優の小西真奈美に似てるだろ。顔も身体も良さそうだし、この際、お前も少しは愉しんだらどうだ? 全っく、お前が羨ましいよ。同じ歳の男なのに、どうして俺は全然女が寄ってこなくて、お前には群がるんだ?
 などとかえって羨ましがられ、けしかけられる始末だった。
「ねえ、課長、また今度、一緒に飲みましょうよ」
 しなだれかかるような声音に総毛立ち、直輝はピシャリと内線を外線に切り替えた。
「もしもし、営業課の矢代ですが」
―お忙しいところ、申し訳ありません。
 きびきびとした話し方には嫌みがなく好感が持てる。小泉満奈美と話した後なので、余計にそう思える。女特有の性(さが)をこれでもかと言わんばかりに全面に押し出した態度は、嫌みでしかない。
―私のことを憶えていらっしゃるでしょうか。N中で一緒だった宮澤と申します。
 宮澤―。直輝は一瞬、ポカンとし、破顔した。
「有喜菜?」
―そう、私、宮澤有喜菜。憶えてます?
「憶えてるも何も、忘れるわけないだろ。懐かしいな。確か、いちばん最後に逢ったのは」
 直輝が記憶の糸を手繰り寄せようとしている中に、有喜菜がさらりと言った。
―六年前のN中の同窓会のときよ。
「おう、そうだ、そうだった」
 直輝は幾度も頷いた。
「どうした? 急に」
―ちょっとね。昨夜、久しぶりに中学のときの卒業アルバムを見てたら、直輝のことを思い出しちゃって。あ、今はもう流石に呼び捨てはまずいかしら。
「なに水臭いことを言ってるんだ。君に〝直輝さん〟なんて呼ばれた日には、それこそ鳥肌が立つよ」
―ふふっ、相変わらず酷い物言いね。
 有喜菜は華やかな笑い声を立てる。先刻までの昔通りの爽やかでボーイッシュだった有喜菜をイメージさせる声とは違い、どこか艶のある色っぽい声に思わずドキリとした。
「そういえば、紗英子と時々逢ってるんだって」
 妻の名前を出すことによって、直輝は不自然に高鳴る自分の鼓動を止めようと試みた。
 受話器越しに、少しの沈黙があった。