小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅱ

INDEX|7ページ/7ページ|

前のページ
 

 やはり、久しぶりに電話を掛けてきた女友達に対して妻を持ち出すべきではなかったか? 直輝が柄にもなく狼狽えていると、有喜菜はまた涼やかな声で笑った。
―ええ、奥さまとは今も懇意にさせて頂いてるわよ。
 どこか皮肉っぽくも聞こえる口調に、直輝は更に慌てた。
「あ、どうだ、久しぶりだし、今度、一緒に飯でも食わないか?」
 これでは中一の頃の自分と全く変わっていない。直輝は自分でも苦笑した。
 しかし、昔は有喜菜の前でいい格好しようなんて考えたことは一度もなかったのに、おかしなものだ。
 有喜菜にもその気持ちは伝わったらしい。クスクスとこれは昔どおりの有喜菜の笑い声が聞こえ、
―良いわ、いつにする?
 と十三歳の有喜菜を彷彿とさせる物言いで返事が返ってくる。
「今夜にでも、どう?」
 返事がないので、心配になった。
「急すぎるかな?」
―良いわよ。場所はどこにする?
 今度はすぐに応えがあって、直輝は心から安堵した。
 それから場所を決めて、電話はものの十分とかからずに終わった。
 受話器を元通りにした後、何気なく顔を上げると、通路を隔てた同僚のデスクの側に小泉満奈美が立っていた。何か所用があって来たらしい。
 刹那、満奈美がかすかに片目を瞑って見せた。直輝はまるでおぞましいものでも見たような気持ちで、慌てて視線を逸らす。
 全っく、何なんだ、あの女。
 腹立たしい気持ちになり、直輝はそのまま最上階の社員食堂にランチを取るために行った。むろん、満奈美のことなど、もう頭にはない。考えているのは、今夜、六年ぶりに再会する有喜菜のことだけだ。
 だから、満奈美が去っていく自分の方を燃えるような憎悪を宿した眼で見つめていることにも気づくはずもなかった。

 その夜になった。午後七時、直輝は会社近くのピアノ・バー〝Cat,s Eye〟の扉を押した。
 この店はマスターが殆ど趣味でやっているようなものである。脱サラした五十代後半のマスターは銀髪の知的な雰囲気だ。直輝は会社帰りにしばしば立ち寄り、仕事の悩みなどをよく打ち明けている。父親に対するのに近い心情を抱いていた。
 直輝の父は十年前に他界している。もし父親が生きていれば、こんな話もしただろうにと思う気持ちがマスターに向いているのかもしれなかった。
 雑居ビルの三階にある店は手狭ではあるが、ワインカラーの落ち着いた内装で統一されており、ほの暗い照明がまるで深海の底にいるような錯覚をさせる。
 カウンター席が幾つかと、他には壁沿いにテーブル席が三つ。片隅にこの店の呼び物であるグランドピアノが存在感を主張している。
 直輝は入るなり、店内をざっと見回した。カウンターのスツールに女が一人座っている。昔、〝黒いドレスの女〟という映画を見た記憶があるが、まさにそのイメージどおりの女であった。
 丈の長いロングドレスに身を包み、長い両脚を交差させている。ドレスは飾り気のないごくシンプルなデザインで、胸許は適度に空いてはいるが、けして胸が露わに見えるというほどではない。
 全体的に見ればおとなしめのデザインのはずなのに、ハッとしてしまったのは、裾に大きなスリットが入り、隙間からほの暗い室内でも眩しいほど白い、すんなりとした美脚が覗いていたからだ。
 後ろ姿しか見えないが、髪は艶やかに背中まで流れている。まるで今日の空を覆っているような見事な漆黒だ。
 あんな良い女が、こんな店にいるなんて、こいつは滅多にお目にかかれないな。
 と、マスターが聞けば気を悪くするに違いない科白を心で囁き、カウンターに近づいた。
「よう、来たな」
 先にめざとく気づいたマスターが笑顔で手を振る。いつもながら、糊のきいた白いシャツに黒と赤のギンガムチェックのベストと赤の蝶ネクタイ。伊達男(ダンディー)という言葉は、このマスターのためにあるのではないかと思うほど似合っている。
 今は若い連中は男も女もそれなりに装うことを知っているから、皆、町を歩く若者は見劣りはしない。タレントやモデルではなくても、それなりに綺麗な若者はたくさんいる。
 でも、幾らオシャレをして上辺だけを取り繕ってみても、こういう燻し銀のような魅力や輝きは、若者にはけして出せない味だ。マスターの端正な面には若い頃はさぞかし男前だっただろうと思わせる名残は十分に残っている。
 上辺だけでなく、長年の人生で重ねてきたものが内側から滲み出ていて、彼の豊かな年輪を感じさせる雰囲気がまたマスターをより魅力的に見せているのだった。
「こんばんは」
 会社では既に営業課長の肩書きを与えられ、若い部下からは一目置かれている。が、この店に来ると、父親ほど歳の違うマスターには礼を尽くすのはいつものことだ。
「ところで、良い女ですね」
 流石に聞こえては罰が悪いので、小声で囁くと、マスターは小さく肩を竦めた。
「よく言うよ。矢代君の待ち人だろう」
 え、と、直輝は愕いて振り返った。
 と、丁度、黒いドレスの女が顔を上げたところだった。視線と視線が宙で絡み合う。
「久しぶり」
 女の美しい面に、艶やかな微笑が浮かんでいる。すっかり臈長けて見違えるように綺麗になってしまった美貌の中、かすかに少女時代の有喜菜の面影が垣間見えた。
「有喜菜!?」
 失礼かと思ったが、あまりの愕きに声が裏返った。六年前の同窓会で彼女を見かけたのは、ほんの一瞬だったし、直輝は仕事の都合で一時間程度しかいられなかった。
 実は、間近で有喜菜を見るのは、もう六年どころではなく久しぶりなのだ。