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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅱ

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 有喜菜がこの話を受け容れた真の理由―、それは紗英子の夫直輝の存在であった。もちろん、直輝は紗英子の夫だ。これから先、間違っても、直輝と有喜菜の人生が交わることなどないだろう。
 だが。直輝の子を孕み、生むという行為を通して、有喜菜は直輝と一体になれる。たとえ直輝自身は知らなくても、直輝の子どもを生むのは紗英子ではなく、この自分なのだから。生まれた子どもはすぐにでも紗英子に手渡すことになるだろう。それでも、有喜菜は直輝の子を産んだただ一人の女として、永遠に彼と繋がっていることができる。
 随分と歪んだ考え方だが、有喜菜は今でも直輝をひそかに想っている。二十三年前、親友であったはずの紗英子に突如として断たれた淡い恋心は気の遠くなるような年月を経てもなお色褪せることはなく、ひっそりと有喜菜の心の底で咲き続けていた。
 それは図らずも有喜菜から直輝を奪った紗英子への復讐でもあった。紗英子にはけして生めない直輝の子どもを、代わりに有喜菜自身が生むのだ。紗英子がもし、有喜菜の直輝への想いを知れば、絶対に代理母など頼みはしなかっただろう。
 有喜菜の気持ちを知らない紗英子は、まんまと有喜菜に復讐のチャンスを与えたのだ。
 あの日の、二十三年前の衝撃の瞬間は今も忘れがたい屈辱となって、有喜菜を責めさいなむ。
―ねえ、有喜菜。聞いて聞いて。今日、学校で昼休みに直輝君に告白したのよ、私。
 何も知らない無邪気なふりを装い、有喜菜を出し抜き、知らない間に直輝に接近していった紗英子。まるで泥棒猫のように、直輝を有喜菜から奪っていった―。
 紗英子から直輝に告白したのだと打ち明けられた刹那、有喜菜は眼の前が真っ白になったものだった。
―それで、どうなったの? 
 放課後、学校からの帰り道、川沿いの土手を並んで歩きながら、有喜菜は声を震わせないようにするのが精一杯であった。
―うふっ、直輝君ってば照れまくって、〝良いよ、俺で良ければ付き合おう〟ですって。
 紗英子はそれからも煩くさえずっていたが、有喜菜はもう何も耳には入らなかった。
 直輝が、直輝が紗英子の告白を受け容れた。その重い事実だけが有喜菜の心を支配し、打ちのめした。
―そう、良かったじゃない。
 努めて狼狽えないように、余裕を滲ませて祝福するのが精一杯。でも、自宅に帰ってからは二階の自室に駆け上がり、ベッドに打ち伏して泣いた。
 どうして、もっと早くに告白しなかったんだろう? 自分をどれだけ責めてみたところで、時は既に遅かった。有喜菜の性格からして、既に纏まってしまった直輝と紗英子の間に割り込もうとまでするつもりはなかった。
 だが、妙だとも思った。紗英子はこれまで一度も、直輝のことを好きだと話したこともなく、それらしい態度を示したこともなかった。小学校のときには、クラスの初恋の男の子について、それはもう煩いくらいに毎日、聞かされたはずなのに。
 もしかしたら、あの頃、紗英子は紗英子なりに、有喜菜の存在を牽制していたのかもしれない。そのことに疎い有喜菜が気づかなかっただけで、紗英子は有喜菜を警戒し、将来はライバルになり得ると判断して、有喜菜には直輝が好きだという気持ちを気ぶりほども見せずに彼に近づいたのだろう。
 紗英子自身にはその自覚がなかったとも考えられるが、結局、紗英子はそう取られても仕方のないことをやってのけだのだ、あのときは。
 まあ、恐らくは無意識の中に―女の勘というヤツで、紗英子は何となく有喜菜を煙たく思っていたに違いない。一年のときは有喜菜と直輝が同じクラスだったから、二年になって二人が離れ逆に紗英子と直輝が同じクラスになったのがチャンスとばかりに猛アタックした、それが真実だろう。
 あの時、奥手で優柔不断な紗英子のどこに、男子に猛アタックするほどの勇気と決断力があったのかと、有喜菜はただただ信じられない想いであった。
 直輝はどんな気持ちで紗英子の告白を受け容れたのか。その場で快諾したというくらいだから、彼もまた有喜菜など眼中になく、紗英子だけを見つめていたのか。
 だが、であれば、何故、彼は紗英子に妻となってからも見せなかった大切な宝物を有喜菜には早くから見せてくれたのか。今となっては、直輝の心を推し量るすべはない。
 有喜菜は溜息をつき、緩慢な動作でベッドに身を起こした。その時、突如として烈しい吐き気が胃の底からせり上がってきて、有喜菜は手のひらで口許を押さえた。
 狼狽えながらトイレに駆け込み、便座に掴まり覗き込むようにして吐いた。
「ううっ、う―」
 恐らく今夜、紗英子と一緒にいたときに食べたものはすべて戻してしまったのではないか。それほどに吐いた。
 漸く頑固な吐き気が治まってから、有喜菜は吐瀉物を流し、トイレを出た。洗面台で口をすすぎ、顔を洗うと少しは気分が良くなったが、不快感はまだ体内に残っている。
 悪阻が始まったのかもしれない。
 有喜菜は茫然と鏡の中の自分を見つめた。
 過去に三度の妊娠を経験しているが、悪阻らしい悪阻を経験したことはない。異変が起こるまで妊娠経過は至って順調だった。
 鏡の中の女は蒼白く、透き通るように不健康な血の気のない顔をしている。唇はルージュも落ちて、酷い有様だ。
 これから十ヶ月間、自分は子どもをこの身体の中で育てる。その事実が今初めて、ひしひしと迫ってきた。これが自分自身の子であれば歓びも湧こうが、この子は間違っても有喜菜の子ではない。憎い―あの女の子だ。
 憎い? 私が紗英子を憎んでいる?
 これまで一度も憎んだことなどなかったのに、今、自分は確かに紗英子を憎いと思った。
 有喜菜はそっと腹部を押さえた。ここに新しい生命が息づいている。そう思っても何の感慨も子どもへの愛おしさも湧かなかった。
 しかし、この子は紗英子の子であると同時に直輝の子でもあった。うまくいけば、この子は二十三年前に途切れた男との縁を繋いでくれるかもしれない。
 いや、子どもなんてこの際、どうでも良い。
 私はもう昔の私ではない。親友だと信じていた女に大好きだった彼を横取りされて、ただ泣いて堪えていた十三歳の私ではないのだ。
―ウシナッタカコヲトリモドシテ、ナニガワルイノ? サエコガカレヲヨコドリシナケレバ、カレハワタシノモノニナッテイタカモシレナイノニ。
 そう、彼を取り戻して何がいけないというのだろう?
 有喜菜は清潔なタオルで顔を拭き、口許をぬぐった。再び自室に戻り、ベッドに座る。無造作に放り出されたメタリックピンクの携帯を取り上げ、ゆっくりと開いた。
 ネットに繋いで検索をかけると、N企画の電話番号はすぐに見つかった。かなり大手の会社だから、様々な部署に分かれているものの、直輝が営業に所属していることは知っている。
―N企画営業部営業課 ○○○―△△△―×××
 その番号を手慣れた様子で入力し、アドレス帳に記憶させる。
―ウシナッタカコヲトリモドシテ、ナニガワルイノ?
 もう一人の自分の声が頭の中でリフレインしている。有喜菜はふいに疲労感を憶え、携帯を傍らに置き、そのままベッドに突っ伏した。身体がひどく疲れやすくなっている。これもやはり妊娠の兆候だろう。