天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅱ
夫の反対を押し切り、成し遂げ勝ち得た妊娠。自分で生むことはついに叶わなかったが、考え得る限りのあらゆる手を尽くして、とうとう自分の血を引く赤ん坊をこの手に抱くことができる。
しかし、代理母出産をすると告げた日から、夫との間には溝ができ、それは深まるばかりだった。今や夫婦の会話は全くなく、直輝はただ自宅には食事と寝るためにだけ帰るようなものだ。仮面夫婦どころか、今の紗英子は夫にとっては単なる家政婦か同居人にしかすぎない。
あの夜、直輝が
―お前には、ほとほと愛想が尽きた。
と言ったのは何も言葉の勢いだけではなかった。そのことを今になって紗英子は漸く悟ったのだった。
それに、先刻、見た有喜菜の仮面のような表情が瞼に浮かぶ。
―要するに、私の役目は十ヶ月後に、元気な赤ん坊をあなたに渡すことでしょう? それさえ守れば、あなたに私の私生活についてあれこれと口出しする権利は一切ないの、良い?
言い放った時の冷たい瞳。紗英子は静まり返った湖のように感情の欠片も宿さない双眸を思い出し、身をぶるりと震わせた。
いや、あの静謐な瞳の奥底に一瞬、揺らめいたのは蔑み? それとも、憐れみか勝ち誇った勝者の余裕だったかもしれない。
そんなことを考える自分の方がどうかしているのだろうか? 有喜菜は紗英子の二十六年来の友人なのに。すべてが悪い方へとしか考えられなくなってしまっている。
もしかしたら、たった一人の友達すら永遠に失ってしまったのかもしれない。
友達と夫と。
いちばん大切なものを手放した自分。果たして、そこまでするだけの価値が本当に代理出産にあったのだろうか。
子どもが人生最大の幸福とは限らない。
何かのエッセイで読んだ一文がそこだけ鮮やかに甦った。
愚かな、なんて、愚かな私。
ともすれば後悔に泣いてしまいそうになる心を、それでも紗英子は懸命に自分を叱咤する。
きっと直輝の頑な心も、元気な赤ん坊の顔を見れば、春の光に溶けてゆく雪のように解(ほぐ)れていくに違いない。元気な赤ちゃんさえ生まれれば、きっと、すべてが上手くいく。
今はその儚いひとすじの光にも似た願いを祈るような気持ちで心に抱(いだ)くしかなかった。
そう、赤ん坊さえ生まれれば、すべては元に戻り、また優しい夫に戻ってくれるはず。きっと、必ず。
その夜、有喜菜は自室に籠もり、長い間、物想いに耽っていた。ベッドに仰向けに寝転がり、天井を眺めていると様々な想いが空をよぎる雲のように急ぎ足で流れてゆく。
有喜菜の手には愛用の携帯電話が握りしめられている。もうかれこれ二時間余り、有喜菜は二つ折りの携帯を閉じたり開いたりを繰り返していた。
有喜菜の耳奥で紗英子の必死な声音がこだまする。
―無闇に売薬を飲んだりして、お腹の子どもに何かあったら、どうするつもり?
今日の紗英子はいつもにも増して不安定だった。特に有喜菜の行動のすべてが気になって仕方がないように見えた。昨日は昨日で待望の妊娠が判明して、躁状態になっていたようだが、今日は一転して鬱に入っていたようだ。
まあ、紗英子の気持ちが判らないわけではない。代理母出産という異例中の異例ともいえる選択をし、一度で成功することは極めて難しいとされるにも拘わらず、有喜菜は奇跡的に妊娠した。子どもを欲しいという紗英子の一途さはよく理解しているだけに、その歓びが尋常ではないだろうことも察しはつく。
昨日の紗英子はまるで脚が地についていないようで、何を話していても上の空で夢の続きを見ているかのような節があった。
一夜明けて、その歓びも鎮静して、今度は逆に不安ばかりが生じてきているのだろうか。それも理解できないわけではないが、それにしても、これから出産までずっと紗英子に監視され続け、私生活のあれこれにまで干渉されるのでは堪ったものではない。
それでも我慢はしていたのだが、あまりにしつこいので、つい有喜菜も堪りかねて強く言ってしまった。
―そんなに私のやることなすことが気に入らないのなら、私ではなく、あなたが子どもを生めば良いじゃない。
流石に今、思い返しても、あれは言い過ぎだと思う。紗英子がどんな想いで手術を受けたかは部外者の有喜菜だとて想像はできる。女にとって子宮を取るというのは一大事に他ならない。有喜菜自身は別に切ないくらいに子どもを欲しいと思ったことはないけれど、人によって考えは違うだろう。
紗英子は子どもを持つことを人生の第一目標に掲げてきた。彼女にとって、その可能性を根こそぎ奪われた出来事がどれほど辛かったかは察するに余りある。
有喜菜自身、子どもの問題は別として女であるという証―子宮摘出という出来事が自分に降りかかってきたら、やはり相当な衝撃だと思う。
どれだけ紗英子の干渉に腹が立ったとしても、あのひとことだけは人として口にすべきではなかった。
紗英子にしてみれば、決死の想いで挑んで漸く授かった子どもに、何かあれば大変だと思ってのことに違いない。しかし、干渉される立場の有喜菜にはまた傍迷惑では済まない話だった。しかも、それがこれから十ヶ月、子どもが無事に生まれるまで続くというのだから、うんざりするのもこれはこれで仕方ない。
あんな無情な科白を口にする代わりに、何故、事を分けて〝干渉されるのはいやだから、そっと見守って〟と言えなかったのか。有喜菜なりに紗英子の心を傷つけてしまったことに対して反省はしていた。
しかし、その一方で、あくまでも有喜菜の身体を子を産ませるための道具としてしか見ていない紗英子を恨めしく思う気持ちも依然としてあった。
―あなたがそんなにも神経質なくらい私の身体を心配するのは、私のためではなくて、お腹の子どものためでしょう。
はっきりと言ってやりたい想いがないわけではなかったけれど、そんな科白を口にしても自分が惨めになるだけだから止めたのだ。
判りきったことを何を今更と思われるだけで、紗英子は反省などしないだろう。
果たして、自分が代理母などを引き受けたことは正しかったのだろうか。有喜菜の心は揺れていた。
妊娠・出産というのは、そもそも神の領域のはずである。少なくとも昔は人間には立ち入ることのできない神聖な場所であった。それが医学の飛躍的な進歩で、子どもに恵まれない人も親になることができるようになった。
それはもちろん良いことに違いない。とはいえ、幾ら医学が進歩したからといって、本当にやっても良いことなのだろうか。有喜菜の感覚からすれば、他人の腹を借りて自分の子を育てて産ませる―などというのは、はるかに想像の限界を越える行為であった。自分が紗英子の立場であっても、まずやらない。
でも、結果として有喜菜は紗英子の申し出を受け容れ、代理母となることに同意した。それはとりもなおさず、代理母出産という行為を容認したことにはなりはしないか。
有喜菜は判っていた。自分が代理母になることを承知したのは、別に紗英子の必死さに打たれたわけでも、報酬に眼がくらんだわけでもない。確かに紗英子が提示した法外な報酬は魅力的ではあったけれど、それだけで引き受けたりしかなかった。
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅱ 作家名:東 めぐみ