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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅱ

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 私の務めは元気な赤ちゃんを生むことであって、それは私自身が気をつければ良いんだし、あなたが私の私生活にまで入り込んできて良いということにはならないのよ。
 どこか苛立ったような言い方は有喜菜らしくない。
「―」
 紗英子は押し黙った。確かに、有喜菜の言葉は理に適っている。紗英子は有喜菜から元気な赤ん坊を受け取れば良いのであって、そこから先―有喜菜のプライベートまでに立ち入る権利を得たわけではないのだ。
 でも、元気な赤ん坊が生まれなかったら?
 紗英子は子どもを持つという目的意識が大きかった分、様々な育児雑誌を読みあさり、知識には精通していた。まあ、実践を伴わない知識と言われれば、そこまでのものだけれども。
 そんな紗英子から見たら、有喜菜の今の状態は極めて危なかしいものに見えてならなかった。妊婦がハイヒールを履き、階段を二段飛ばしで上り下りし、健康のことも考えずに食べ放題に食べる。仮に紗英子が有喜菜の立場なら、妊娠が判ったその日から、妊婦にとっては理想的な生活を心がけるだろう。
 軽くて歩きやすい運動靴を履き、階段は手すりを持ち、静かにゆっくりと行き来する。もちろん走らないし、食事は野菜を中心にローカロリーのヘルシーなものを取る。むしろ、有喜菜は妊娠したからといって、生活を何ら改める気もなさそうだ。そのことが紗英子には信じがたく、また自爆行為にも思えた。
 もちろん、有喜菜の腹の子が有喜菜自身の子どもなら、紗英子だって妙な干渉なんてしない。母子ともにどうなろうが、それは有喜菜の好きでやることで、紗英子の知ったことではない。
 だが、今、彼女の胎内にいる赤ん坊は紗英子の大切な我が子なのだ。有喜菜の好きにさせておいて、万が一、子どもに何かあれば後悔してもしきれないではないか。
「それはまあ、確かにあなたの言うとおりね」
 紗英子はやや鼻白んで言い、もう殆ど冷めてしまったパスタを気のなさそうにつついた。
 有喜菜はといえば、紗英子に受けた忠告なんてまるで聞いていなかったように、山盛りのフルーツパフェを小さな匙で掬って口に運んでいる。その傍らには、とうに空になったパスタ皿があった。
 それにしても、よく食べる女。
 紗英子は苛々としながら、有喜菜の健啖ぶりを眺めた。今、長い髪は一つのシュシュで結わえられている。美人はどんな格好をしても様になるもので、そういう姿さえ、有喜菜の仕種はドラマのワンシーンを眼にしているようだ。
 その時、有喜菜が小さなくしゃみをして、次いで咳込んだ。
「大丈夫!?」
 紗英子はまたしても声が大きくなった。
「大丈夫よ、昨夜は急に冷え込んだでしょ。ちょっと風邪を引いたみたいで、朝、風邪薬を飲んだから」
 紗英子は眼を剥いた。
「駄目よ! 妊婦が売薬なんて無意識に飲まないで。妊娠したら、ちゃんと掛かり付けで診て貰ってから、そこで処方された薬だけを飲まなくちゃ。無闇に売薬を飲んだりして、お腹の子どもに何かあったら、どうするつもり?」
 有喜菜が音を立ててスプーンをテーブルに置いた。その音がやけに大きく聞こえたのは、紗英子の気のせいだろうか。
 紗英子はそれには取り合わず、更にまくし立てた。
「それに、風邪気味だというのなら、仕事は休んだ方が良かったんじゃない? 無理をしてひどくなったら、それこそ強い薬を飲まなくてはならないでしょうし、それがお腹の赤ちゃんに悪影響を与えないって保証はないもの」
「良い加減にして」
 有喜菜の少し掠れたハスキーな声が意外に響いた。隣のテーブルに座った女子高生の二人組がちらちらと意味ありげにこちらを見ている。
「あなた、一体、何さまのつもり?」
 有喜菜は手許にあった白いナプキンで苛立たしげに手をぬぐっている。白いほっそりとした指先にパフェのクリームがついていた。
「有喜菜―」
 直輝と同様、普段は滅多と感情を露わにすることのない有喜菜が声を荒げ、紗英子は息を呑んだ。
「良い、子どもを生むのはこの私なのよ? なのに、何で、そのことについてあなたにいちいち指図されなきゃらないの? そんなに私のやることなすことが気に入らないのなら、私ではなく、あなたが子どもを生めば良いじゃない」
「酷いわ、有喜菜。私に子どもが生めないって、あなたは知っているでしょうに。それに、その子は私の子どもなのよ、幾ら、あなたのお腹で育つからって、あなた一人の好きにしても良いというわけにはいかないでしょう」
 紗英子はいきなり脳天をハンマーか何かで殴られたような衝撃を受けた。涙が一挙に溢れ出してきて、止まらなかった。
「これだけは言っておきたいんだけど」
 有喜菜が突如として居住まいを正した。
「私のお腹にいる子どもは、あなたの子どもであることは間違いないわ。でもね。この子が十月十日、私のお腹にいる間は、私が母親でもあるのよ。言わば、お腹を借してあげて育てる、育ての母というわけ。だから、この子が誰の子どもだと思おうと、その間は私の自由のはずじゃないかしら。要するに、私の役目は十ヶ月後に、元気な赤ん坊をあなたに渡すことでしょう? それさえ守れば、あなたに私の私生活についてあれこれと口出しする権利は一切ないの、良い?」
 有喜菜はきっぱりと断じ、長い両脚を優雅に交差させ、余裕の表情で通りかかった若いウエイトレスに食後のコーヒーを頼んだ。
「さっきは私も言い過ぎたかもしれない、それは謝るわ。でも、あなたも妙な勘違いはしないで欲しいの。幾らあなたの子どもをこの身体の中で育てる代理母の立場になろうと、お互いに守るべき礼儀っていうものはあるでしょ」
 いつも溌剌とした話し方をする彼女には似合わないような沈んだ、それでいて諦めてないという意思を感じさせる口調である。
 そう言って微笑む彼女を見ていると、何故だか胸がツキリと痛んだ。
 元気な赤ん坊さえ受け取れば、後は一切、私に有喜菜の生活について干渉する権利はない。それは一見、もっともでありながら、どこか理不尽な要求にも思えた。我が子がもしかしたら危険に晒されるかもしれないのに、そんな状況をみすみす見ないふりをするなんて。
 その後、二人はろくに会話もないままに店を出たところで別れた。
 私がした選択は正しかったのだろうか?
 他人の腹を借りてまで我が子を得たいと願ったのは、やはり人としての道にもとるものだったのだろうか。
 三ヶ月前、代理母出産を希望すると宣言したときの夫の表情がありありと浮かんだ。
 子どもが生まれるというのは神の領域なのだ。だから、妊娠・出産を人為的に操作するのは神の意思に反するのだ。あの時、直輝は主張し続けた。更には彼はこうも言ったのだ。
 子どもがいないのは淋しいけれど、これからは夫婦二人で穏やかな日々を紡いでいこう、と。でも、あのときの自分は頑なに代理母出産に拘り続け、結局、有喜菜を代理母として選び、決行した。結果として、有喜菜は妊娠。
 あと十ヶ月後には、待望の我が子が産声を上げる。すべては自分の望み通りになったはずなのに、何故か心は虚ろで寒々としていた。