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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅱ

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翌日、紗英子は浮かない顔で電車に乗っていた。昨夜の夫とのやりとりがまだ心に重く淀んでいたからである。
 昨夜、紗英子は直輝に事の次第を報告した。もちろん、代理母の名前は伏せ、妊娠が判明したことを簡単に告げたにすぎなかった。しかし、直輝は紗英子が期待していたような反応は全く見せなかった。
―そうか。
 ただ短く応え、逃げるように書斎へと閉じこもった。
 紗英子はただ茫然と立ち尽くしているしかなかった。むろん、元々この話に乗り気でなかった直輝だけに、自分のように狂喜乱舞するとまでは思わなかったが、せめて笑顔くらいは見せるだろうと想像していたのだ。
 有喜菜の身籠もった赤ん坊は他ならぬ自分たちの子ども、直輝と紗英子の血を引く我が子ではないか。妊娠判明を知った有喜菜が淡々としているのは赤の他人だからまだしも、当の子どもの父親であるはずの直輝が何故、ここまで冷静でいられるのか理解できなかった。
 たとえ誰の子宮で育とうと、別の女が生もうと、子どもの体内を流れる血は直輝のものであり、紗英子のものなのだ。結婚して十三年めにやっと恵まれた我が子だというのに、夫はその誕生が嬉しくはないのだろうか。それとも、最初から彼が烈しく反対しているように、神の倫理とやらを越えた医療技術の果てに得た子どもは、ただそれだけで愛情が持てないとでも?
 だが、と、紗英子は思い直す。直輝にしてみれば、代理母の妊娠を告げられたところで、何の感慨も湧かないのも無理はないかもしれない。何しろ、元来、男性は妊娠・出産を経験する生きものではない。普通に生まれてくる赤ん坊でも、父親の方は母親と異なり、〝親〟となる自覚はゆっくりと芽生えてくるものだという。
 女は身籠もった瞬間から、早々と親になるけれど、男は自分の妻のお腹が徐々に膨らんでくるのを見、時々は妻のお腹を元気に蹴ってくる赤ん坊の存在によって、やっと自分が父親になるのだと認識する。その点が母親と父親の大きな違いなのだと、以前、育児書か何かで読んだことがあった。
 だとすれば、直輝の場合は、妻たる紗英子の腹が膨らんでいくわけでもないのだし、我が子の存在を意識させるものが何もなく、ただ〝子どもができた〟とだけ告げられても、自分が父親だという自覚を持つのは難しいだろう。
 が、その中に有喜菜のお腹も大きくなり、超音波写真に赤ちゃんの姿が映るようにでもなれば、直輝の心情も自ずと違ってくるのではないか。更に十月十日過ぎて、赤ん坊が生まれ、本物の赤ちゃんを家に連れて帰れば、歓びが現実となり、ひしひしと迫ってくるに違いない。
 M駅で降りた紗英子は、苛々と腕時計を覗き込んだ。今日は有喜菜と二人で待ち合わせて外食を共にする予定だった。幸いにも、直輝は得意先の接待とかで、今夜は遅くなるらしい。
 既に腕時計は午後七時を回っていた。約束の時間は六時半。有喜菜の勤務する会社は午後五時で、大抵は定時退社だと言っていた。たまに残業がないわけではないが、妊娠が判ったので、上司に報告して今後はできるだけ負担を軽減して貰うと話していた。
 彼女が妊娠について会社にどのような報告をするのか判らないが、間違っても紗英子や直輝夫婦の名を持ち出すことはあるまい。どんな説明をされようが、紗英子には拘わりのないことと割り切っている。
 五時に会社を出て、近くの個人病院で注射を受けて電車に乗っても、もう着いても良い頃合いだ。N駅もそれなりに大きいが、隣のM駅は更にひと回り大きく、地下街も色々な店が居並んでいる。
 なので、二人はM駅の地下街で待ち合わせ、どこかの店に入ろうと話していたのだ。改札を出た場所に立っていると、側を様々な人々が通り過ぎていく。仕事帰りのサラリーマン、学校帰りの女子高生たち。
 時に人波に押されそうになりながら、背伸びして有喜菜を探していたところ、向こうから有喜菜が小走りに駆けてきた。
「ごめん、紗英。遅れちゃったわね」
「もう! 約束を忘れたのかと思ったわよ」
 紗英子が軽く睨むと、有喜菜は茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「ごめん、ごめん。病院の方が少し混んでてね。これでも大急ぎで走ってきたんだから。駅の階段も二段飛ばしよ」
 今日の有喜菜はブラックのパンツスーツで決めている。少し伸びたロングヘアは裾だけ揺やかにカールし、メークはもちろんバッチリだ。良い女の典型というか、ファッション雑誌の一ページから抜け出てきたような姿はいつもと変わらない。
 その抜群な体型からは、まだ妊婦であるとは到底想像も及ばないだろう。しかも、履いているのはスーツに合わせたヒールの高い黒のパンプスだ。確かに有喜菜のノーブルでありながらも艶やかさを感じさせる女っぷりにはよく似合っていたけれど、仮にも妊娠した女にふさわしい靴とは言えない。
 その良い女の見かけには全く似合わない男っぽい仕種が時に飛び出してくる。それは昔、紗英子がよく知る中学生のときの彼女と少しも変わらなかった。
「走ったりしたら駄目よ、しかも階段を二段飛ばしだなんて。もし転んで落ちたりしたら、どうするつもり?」
 声がつい尖ってしまったのは、この場合、致し方ないだろう。
 有喜菜は小首を傾げ、紗英子を探るように見つめた。
「別に子どもじゃあるまいし、そこまで心配して貰わなくて大丈夫よ」
「だって、有喜菜の身体には赤ちゃんがいるのよ?」
 私と直輝さんの赤ちゃんが。
 言いそうになって、紗英子は慌てて口をつぐんだ。
「―時間も過ぎてることだし、そろそろ行きましょう」
 有喜菜はそれについては触れず、二人はどこかぎくしゃくした雰囲気のまま眼に付いたイタリアンレストランに入った。
 紗英子は、あさりときのこのバジル風味のパスタ、有喜菜はチーズカルボナーラを注文する。
「有喜菜、物凄い食欲ねえ」
 紗英子は半ば呆れ半ば感心したように唸った。
 有喜菜はパスタを大盛りにしただけでは飽き足らず、デザートにフルーツパフェまで追加した。まさか、まだ悪阻が始まるはずもないだろうけれど、妊娠初期というのは何となく熱っぽかったり身体がだるかったりと不定愁訴に近いような症状が出るという。
 なのに、有喜菜といえば極めて健康そのもので、食欲は紗英子のゆうに三倍はある。
「そう? 前も言ったでしょ。食べられるときに食べる主義だって」
「もちろんそれは良いことだと思うけれど、これからはもっと健康面や安全面でも慎重になっても良いんじゃないかしら? 妊娠中はカロリーの過剰摂取は禁物らしいわよ? 初期はともかく中期以降は妊中毒症を起こすし、そうなったら、お腹の赤ちゃんにも色々と良くないの。後は走ったりとか、ましてや階段の二段飛ばしなんて良くないわ。転んだら流産や早産の原因になりかねない。今、有喜菜が履いているパンプスも、ヒールが高すぎ。妊娠中は安全なローヒールをはかなきゃ」
「紗英。忠告はありがたく聞くけど、これだけは言っておきたいの。私はあなたたちの子どもを生むという仕事を引き受けた。極力気をつけて無事に元気な赤ちゃんをあなたに手渡せるようにはする。でも、だからといって、別に妊娠期間中の私の生活すべてをあなたが管理して良いわけじゃない。私だって、逐一、あなたの干渉を受けるのはいやだわ」