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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅰ

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「ただ、今はまだ本当に微妙な時期です。確かに着床イコール妊娠ではありますが、まだまだこの先、何があるかは判りません。別に脅すつもりはないのですが、万が一、残念な結果になり得ることもないとはいえませんので、それだけはお心に止めておいてください」
 予期せぬ医師の言葉に、紗英子はピクリと頬を引きつらせた。
「それは―先生、はっきり言うと、流産の可能性もあるということですか?」
 思わず喰らいつくように言ってしまい、後から後悔したけれど、こういった反応には慣れているのだろう。医師は小さく頷き、また微笑んだ。
「あくまでも可能性の問題です。そうですね。あと一週間経てば、妊娠も確定できますし、こういった体外受精だけでなく、ごく自然な妊娠においても残念な結果に終わることはあります。なので、矢代さんもあまり神経質にならないで、ゆったりとした気持ちで経過を見るようにした方が良いでしょう」
 医師はまた有喜菜に視線を移した。
「これからが大切な時期ですから、くれぐれも無理はしないようにしてください。注射の方は今までどおり、毎日、指定どおりに受けること、後は妊娠を継続させるための内服薬も今日から処方しますので、そちらも忘れずに飲んでください」
 この後、有喜菜は内診室でエコー(超音波)診断を受けた。まだ早期なので、膣の方から子宮を映して子宮の状態を見るのである。
 しばらく後、医師が手のひらにおさまるほどの大きさのエコー写真を持って戻ってきた。
「まだ早い時期ですから、赤ちゃんの姿は見えません。これはごく普通のことだから、心配はないんですよ」
 エコー写真は紗英子も撮ったことがあるので馴染みはある。モノクロで子宮の内部が映っているのだ。医師は写真を指し示しながら説明してくれた。
「白っぽく映っているのは、子宮内膜が厚くなっていることを示します。どういうことかというと、妊娠が続いている可能性が高いといえます。恐らく、その辺りに受精卵が着床したのでしょう。順調な経過を辿れば、ここにもうじき、赤ちゃんの姿が見えてくるはずです」
 普通、このエコー写真は妊婦本人が貰うのだけれど、この場合、妊娠したのは有喜菜でも、写真は〝母〟である紗英子に渡される。が、有喜菜本人が希望すれば、彼女の方にも渡して貰えるということだった。
 それについて訊ねられた時、有喜菜は即答した。
「私は特に希望しません」
 あまりにも素っ気ない返答に、温厚な医師も気圧されたように押し黙り、診察室には微妙な静けさが満ちた。
 恐らく医師もその場に居合わせた看護士も、有喜菜がこの妊娠を心から歓んでいるわけではないと察していたはずだ。が、一度目の試みでの成功という幸運に酔いしれている紗英子には、有喜菜の固い表情に気づくゆとりはなかった。
 診察室を出た後も、紗英子はまだ夢の中をふわふわと漂っているような気分だった。会計を済ませ、有喜菜とクリニックの玄関を出ると、二人は何となくぶらぶらと歩いた。建物を取り囲む庭園を抜けると、ほどなく湖に行き当たる。
 国内でも十位以内に入るという大きさの湖は今日もよく澄んでいた。ちょっと見には滋賀県の琵琶湖を連想させるようだ。蒼く澄み渡った空と水平線が混ざり合い、どこからが湖なのか判別がつかない。
 カモメが白い翼をひろげて蒼い空を旋回している。真っ白なカモメまでもが空の色に染まりそうなほど鮮やかなブルーだ。
 果てのない空を仰ぎながら、自分は多分、この日に見た空を忘れはしないだろうと紗英子は思った。先刻見たばかりのクリニックの庭園には、寒桜が早くも満開になっていた。桃色の愛らしい花をを眺めて通り過ぎ、考えてみれば、今朝、クリニックを訪れたときの自分は寒桜も何もけして眼に入ってはいなかったのだと改めて気づいた。
 それほどに今日の診断結果は紗英子の頭を占めていたのだ。当然といえば当然かもしれないけれど、今日まで自分がいかに治療のことしか考えていなかったのかと思い知らされた気分だった。
 むろん、医師の言うように、まだまだ油断するべきときではなく、もしかしたらこの歓びがぬか喜びに終わってしまう可能性だってあることも理解はしているつもりだ。
 しかしながら、体外受精の中でも更に高度な顕微授精、しかも代理母の子宮に受精卵を戻すという大変難易度の高い治療が初回で成功する―それがどれほど稀有で幸運なことかも判っていた。
 かつて紗英子自身が受けた三度の体外受精でも経験済みなように、体外受精とうのはむしろ成功する確率の方が極めて低いのである。上手く行くカップルは大抵、一度目でなくても二度め、三度目くらいで成功するし、それで成功しなければ何度高額な治療費をかけて試みても成功はしないといった無情な側面がある。
 大概の夫婦は数度試した段階で、治療を断念する。というより、せざるを得ないのだ。不妊の原因が例えば病的なものである場合の治療そのものに保険は効くけれども、体外受精にはきかず、すべて自費で支払わなければならない。一度が五十万単位の高額医療をそう何度も試せるはずがない。
 もしかしたら何度でも挑戦し続けたら、その中には成功するかもしれなくても、よほどのセレブでもない限りは経済的に続けるのは困難なため、諦めるしかないのだ。それが現在の不妊治療の限界でもあった。
 紗英子は今、幸福の絶頂にいた。不思議で堪らない。これまでは―特に子宮を摘出してしまって以降、自分は無色の世界に生きていたようなものだった。花の色も鳥の姿も、自分には何の色も持たず、ただモノクロの世界で機械的に呼吸し、何の意味もなく動いて無為に日々を過ごしているだけだった。
 それが、今はどうだろう! 寒桜は濃紺のピンクに染まり、湖は早春を感じさせる穏やかな陽光に煌めいている。蒼穹を舞う白い鳥たちは祝福の歌を奏でるかのように優雅に翼をひろげていた。
 昨日まで、いや、つい今し方まで灰色に染まっていたはずの周囲が一瞬にして薔薇色に変化したような感覚である。世界中が自分のために祝福してくれているようでもある。自分はこんなにも子どもを渇望していたのかと今更ながらに思い知らされた。
「ありがとう、有喜菜」
 ダイヤモンドのように輝く湖面を見ている中に、紗英子はまたしても涙が込み上げてきた。何と言っても、いちばんの功労者は有喜菜なのだ。まずはお礼を言わなくてはと思い、口にした。
「あなたのお陰よ。これで私と直輝さんも漸く自分の子どもが持てるわ」
 紗英子は傍らにひっそりと立つ有喜菜を見た。相変わらずのスレンダーで、当然ながら、まだお腹は少しも膨らんではいない。だが、彼女の胎内には既にひそやかに新しい生命が芽生え、育ちつつあるのだ。そして、それは有喜菜の子どもではなく、他ならぬ紗英子の、紗英子が心から愛する男、直輝の子であった。
「先生はまだ何も言わなかったけど、予定日は今年ぎりぎりくらいかしら。来年ってことはないでしょうね」 
 早くも赤ん坊が生まれる日にまで想いを馳せ、浮き浮きとした調子で言う。有喜菜は相槌を打つでもなく、何の感情も感じさせない瞳を湖面に向けていた。
「有喜菜?」
 紗英子は不安げに有喜菜を見た。どうしたのだろうか、気分でも悪いのだろうか。