天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅰ
だが、最近、意外なことを知った。あのコレクションを何と直輝は長年の恋人であり妻となった紗英子には一度として見せたことがないばかりか、話したこともないという。それは紗英子自身の話から発覚したことだ。
子宮摘出の手術後、初めて逢った時、紗英子が直輝へのクリスマス兼結婚記念日のプレゼントとして何を贈れば良いか判らない―。そう言って有喜菜にアドバイスを求めたことがあった。
あの時、図らずも知ったのである。普通なら、ただの友達にすぎない有喜菜などよりも、中二のときから付き合った彼女である紗英子の方にこそ真っ先に見せるべきものだ。
何故、あの頃、彼が紗英子にコレクションを披露しようとしなかったのか。今なら、直輝の気持ちが痛いほど理解できた。
紗英子は真の直輝をちっとも見ようとしない。夫婦、恋人とはいえ、全くの別人格なのだから、最初から互いに理解できないのは当たり前としても、少なくとも寄り添って過ごしてゆく日々の中で相手を理解しようと努力するのは自然なことだと思う。
しかしながら、どうやら紗英子という女は、その手の努力はあまりしなかったらしい。現に何度も結婚記念日を迎えながら、プレゼントを贈るのは直輝の方ばかりで、紗英子は全く何も用意していなかったと聞いたときには、愕いた。
与えられるばかりで、自ら与えようとしない女の理不尽さに、ただただ呆れた。そんな女を妻とした直輝が少しだけ可哀想に思えた。自分が妻なら、直輝をそんな立場にはさせないのにとも思った。
恐らく、直輝は紗英子が自分という人間を積極的に理解しようとはしない、と、心のどこかで見抜いていたのだ。だからこそ、最も大切なコレクションを最も身近な存在である紗英子に見せなかったのではないか。
では、何故、そんな女を彼が選んだのか。疑問は残るけれど、それは部外者の有喜菜には拘わりがないし、立ち入れない範囲のことだ。
灯台もと暗しというが、紗英子の場合は典型的な例だろう。イケメンで誠実で働き者、しかも妻にも申し分なく優しい。ましてや、直輝が子どものできないことで紗英子を責めたりはしないのも有喜菜は知っている。
皆が羨むものを手にしていながら、その実、紗英子には自分の手にしているものがとれほどのものなのか価値が全然判っていない。
もしかしたら、紗英子は掌(たなこごろ)の隙間から砂が零れ落ちるように、今、手にしているかけがえのないものを失うかもしれない。でも、気がついたときには、もう遅いのだ。
元親友として、果たして、自分がそうなることを望んでいるのかどうか。有喜菜には、もう判らなくなりつつあった。
♦RoundⅥ(天使の舞い降りた日)♦
その日がついにやってきた。当日の朝、紗英子は有喜菜と共にS市のエンジェル・クリニックを訪れた。この病院には産科・婦人科・小児科・不妊治療特別外来が設けられているが、不妊治療外来は基本的に完全予約制になっている。
既に予約を取ってあったものの、待つこと一時間。その時間が紗英子には永遠にも続くように思われた。
「矢代紗英子さん」
やっと名前を呼ばれ、有喜菜と二人で待合から診察室へと移動する。予約制ということもあってか、待合室には有喜菜と紗英子の他には誰の姿もなかった。こういうところも、このクリニックの良いところだと思う。
一般の産婦人科では、どうしてもお腹の大きな妊婦と不妊治療に来た患者が同席することになってしまう。それはやむを得ないことではあるけれど、やはり、いかにしても子どもに恵まれない女性にとって、幸福そのものの妊婦を見るのは辛い面がある。
しかし、このクリニックでは、そういう精神面も配慮されていて、不妊治療外来と産科婦人科の病棟は別棟で、入り口も独立しているため、よほどのことがなければ妊婦に出くわすことはなかった。
名前を呼ばれた紗英子が診察室のドアを開けると、担当医が待ち受けていた。
まだ三十前後の若い医師ではあるが、院長の直弟子ということもあり、腕の方は確かだと定評がある。また患者の立場に寄り添った医療を目指すこのクリニックの医師らしく、穏やかで、間違っても以前通っていた総合病院の医師のように患者を傷つけるような発言はしない。
紗英子も心からの信頼を寄せて治療を任せることができた。
医師はまず有喜菜から最近の体調の変化などを訊ね、その後、有喜菜は別室で尿検査を受けることなった。
受精卵を有喜菜の子宮に戻してから、丁度二週間が経過している。ここでひとまず、尿検査をして妊娠反応の有無を確認するのだ。最近の妊娠検査薬は精度が高いため、ほぼ百パーセントに近い確率で、妊娠していれば反応が出るという。
しかし、反応がここで出なくても、非常に早期判定のために稀に反応が出ない場合もあるということで、更に一週間後に受診して尿検査を行うという説明を受けていた。
この二週間、有喜菜はここのクリニックから紹介された地元N町の個人病院に毎日通い、受精卵を着床させるための注射を受けていた。これは毎日、二本ずつ打つもので、ホルモンを身体に取り込むことによって妊娠を促し、継続させる効果を期待する。
流産しやすい体質の場合も流産止めの治療としてこの注射を行うことがあった。
尿検査自体はすぐに終わる。有喜菜は直に診察室に戻ってきて、二人は再度、待合室で検査結果が出るのを待った。更に三十分が流れた。この時間も紗英子にとっては、果てしもなく長かった。
「矢代さん、どうぞ」
看護士から呼ばれて有喜菜と二人で診察室に入るなり、満面の笑みで医師が出迎えた。
「おめでとうございます。妊娠されていますね」
妊娠したのは有喜菜のはずなのに、医師は真っすぐ紗英子を見つめて祝福の言葉を述べた。それは全く不思議な気持ちであった。
我が事であるはずなのに、我が事ではないような妙な心持ちだ。医師は次いで、有喜菜に向き直り微笑んだ。
「良かったですね。二個すべてか一個かはまだ判りかねますが、受精卵は無事に着床したようです。まだ早期なので薄い反応ですが、確かに妊娠反応が出ていますから、間違いないでしょう」
「あ―」
紗英子は胸の底から熱いものが込み上げ、言葉にならなかった。
赤ちゃん、私と直輝さんの赤ちゃん。やっと、やっとママのところに来てくれたのね。
一滴の涙が紗英子の頬をすべり落ちていった。これのまでの長かった日々がフィルムを巻き戻すように脳裏を駆け抜けてゆく。
総合病院で紗英子自身が体外受精を受けたときのこと、今日のようにやはり二週間目に妊娠反応を見たけれど、無情にも反応は全く見られず、そのときは診察室を出た後、トイレに籠もって号泣した―。
子宮筋腫が再発して、もう全摘しかないと宣告されたときの気持ち。このまま病院の屋上に駆け上がって飛び降りて死のうとすら思ったのだ。
これで自分は二度と赤ちゃんをこの腕に抱くことはできないのだと心が絶望に染まったあの日。
信じられない歓びに茫然とする紗英子を穏やかなまなざしで見つめ、医師は静かに続けた。
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅰ 作家名:東 めぐみ