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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅰ

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 今、有喜菜が入っている部屋も特等個室であり、贅を凝らしたこのクリニックの部屋の中でもひときわしゃれた内装である。恐らく聞いてはいないが、一日が相当の値段につくはずだ。
 有喜菜がその部屋を望んだ時、紗英子は一瞬、顔を曇らせたものの、すぐに笑顔で〝良いわ〟と頷いた。有喜菜の胎内に受精卵を戻す処置自体は無事に終わったはずだが、経過観察と用心のために、最初から一泊することに決まっていた。
 直輝が代理出産に関して、どう考えているか。それについて、紗英子は一度も語ったことはない。しかし、中学時代からの直輝の性格を考えて、彼がこの話に全面的に賛成しているとは到底思えなかった。第一、直輝が賛成している、もしくは乗り気であれば、治療に一度も顔を出さないのは不自然すぎる。
 仕事があるから、普段付き添えないのは理解もできるが、幾ら何でも一度もクリニックに来ないのはおかしい。そのことから、有喜菜はやはり、彼が代理出産に否定的なのだろうと考えていた。
 ただ一度だけ、いつもクリニックには一緒に通った紗英子が一人で受診したことがあった。それは有喜菜も紗英子から話を聞いて知っている。恐らく、その日に直輝が一緒だったのではと見当はついた。体外受精に非配偶者、つまり夫以外の精子を使うのなら別だが、夫のものを使うのであれば、夫の来院は必ず一回は必要だ。
 有喜菜は付き合いも長い分、直輝と紗英子の性格を知り抜いている。紗英子もまた、直輝以外の男の子どもを代理母を使ってまで望むような女ではないのだ。恐らく、紗英子がここまで子どもを持つことに拘るのも、直輝の血を引く子どもだからこそなのだ。紗英子にとって、他の見も知らぬ男が、紗英子自身の子どもの父親であってはならないはずだ。
 有喜菜が一緒ではなかったその日、直輝は精子を採取する処置を受けたのだろう。紗英子は最初から、直輝に代理母が有喜菜であることを打ち明けるつもりはないと断言していた。
 それに関しては、有喜菜は今のところは異存はなかった。直輝は何事もごり押しを好むタイプではないし、ごく常識的な考えの男だった。代理出産などという人為をはるかに越えた出産法について、どう考えているかは想像がつくし、紗英子と直輝の共通の友人でありながら、それを引き受けた有喜菜自身をもさぞ常識外れの信じられない女だと蔑むだろう。
 むしろ、代理母が自分であると彼に知られたくはない。彼の子を産むのは自分なのだという優越感は、一人静かに浸っていれば良い。愚かな自己満足だと言われれば、確かにそうだろうけれど、構いはしなかった。
 夫である直輝が否定的なら、恐らく紗英子は孤立無援に等しいはずである。当然ながら、代理出産の膨大な費用も自分一人で賄わなければならないだろう。自分と異なり、紗英子の実家は堅実な家庭で、父親は長年勤め上げた公務員だった。裕福ではないけれど、紗英子は実家を頼りにしようと思えば、できる立場にあった。
 そんなところも、もしかしたら、有喜菜が紗英子に隔てを置こうとする一因なのかもしれない。夫、頼りになる優しい両親、紗英子は自分にはないものを持っている。
 何故、そのことに紗英子が気づこうとしないのか、有喜菜は不思議でならなかった。たとえ子どもには恵まれずとも、少なくとも他人が羨むような夫を持ち、いまだに頼りに出来る両親がいる。手に入らない幸福を望むあまり、紗英子は身近にある幸せを見失ってしまったのだろうか。
 仮に有喜菜が紗英子の立場なら、もっと今、手にしているものを大切にしただろう。代理出産という神の倫理に反した方法で強引に子どもを得ようとするのではなく、子どもはいなくても夫と二人だけの時間を大切にしようと考えるに違いなかった。そこが、自分と紗英子の考えの決定的な違いであった。
 もちろん、代理出産が間違っているとか、悪いというわけではない。それは個人的な思惑で決めることだろうし、現実に子どもを望む夫婦にとっては、たとえどんな手段を取ろうと、赤ちゃんを授かることができるのであれば試してみたいと思うのもまた当然の心理だ。
 あくまでも、有喜菜にとっては、肯定できる話ではなかったというだけのことにすぎない。
 実家から借金をしてまで挑戦しようとする代理出産。紗英子の立場では、無駄な出費はできるだけ抑えたいところだろう。それを知りながら、わざと特別室に入りたいと望む自分もまた、どういう人間なのか。本当は部屋なんて大部屋でも良いのに、紗英子を困らせてやりたくて、高価な部屋に入りたいと無理を突きつける。
 紗英子のとんでもない依頼を引き受けてしまったそのときから、もしかしたら、自分も似た者同士になったのかもしれない。何が大切で、何が必要なのか正常な判断もつかなくなってしまった―。
 あるのは、ただ紗英子にはできないことを、この自分が成し遂げうるかも知れないという愚かな優越心と、そんな醜い自分を認めたくないという自己嫌悪。
 有喜菜がぼんやりと物想いに耽っている間に、紗英子はいつしか部屋を出ていっていた。有喜菜が喉が渇いたと訴えたものだから、慌ててジュースでも買いにいったのだろう。
 受精卵を子宮に戻す処置が行われる少し前くらいから、紗英子はどうも有喜菜の顔色を窺うような節が見られるようになった。有喜菜を苛立たせたり、怒らせたり―要するに必要以上に感情を波立たせまいと細心の注意を払っているのが判った。
 別にそこまで気を遣わずとも、この治療に影響は出ないだろうと思うのだが、当の紗英子にすれば、居ても立ってもいられない心地なのだろう。有喜菜の一挙手一投足に顔色を変え狼狽える紗英子の様子は、滑稽でもあり憐れでもあった。
 紗英子はそこまで今回の治療に入れ込んでいる、言ってみれば、背水の陣でもう後がないとまで思いつめているようなところが窺えた。直輝との夫婦間でどのような話し合いが行われているかは判らないけれど、紗英子の鬼気迫る形相を見ていると、どうも直輝の協力が今後、あまり得られそうな見込みがないのかもしれない。
 だからこそ、初めての治療にここまで入れ込むのだろう。直輝の性格から考えれば、今後、この治療をごり押しすれば、永遠に彼の心を失う怖れもあるに違いないはずだ。なのに、長年、連れ添った妻でありながら、紗英子には夫の心が判らないのだろうか。それとも、やはり、彼を愛しているから、その愛する男の子ども欲しさに何もかもが見えなくなってしまっているのか。
 有喜菜の記憶が更に巻き戻されてゆく。
 そう、あれは、まだ中学生になったばかりの頃。まだ直輝と紗英子が知り合う前のこと、有喜菜は何度か彼の家に遊びにいったことがあった。その何度目かに、直輝が勉強机の引き出しからそっと取り出して見せてくれた、大切なコレクション。
 引き出しにズラリと並んだ腕時計は、もちろん中学生のお小遣いで買うものだから、どれも高価なものではなかった。でも、直輝が一つ一つ想いを込めて大切にしていた宝物だというのは有喜菜にもよく理解できた。
 少し得意げに、面映ゆげに見せてくれたあのときの彼の表情を有喜菜は忘れたことはなかった。