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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【後編】Ⅰ

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 弟の妻はまるで現実が認識できていない女である。かつての贅沢三昧が忘れられず、ブランド物を買いあさり、二人のできの悪い子どもたちをインターナショナルスクールだか何だか知らないが、私立の馬鹿高い学費の小学校に通わせている。
 自分の妻ひとりを御しきれない弟も男として情けない限りではある。有喜菜はできれば、あの弟一家とは関わり合いになりたくはない。が、そこは血を分けた弟だから、半泣きで
―姉ちゃん、少しで良いんだ。何とかしてくれよ。
 と泣きつかれると、無下に突っぱねることができないのも辛いところである。
 悔しいけれど、紗英子が代理出産の報酬として出すという金は、今の有喜菜には必要なものだった。
 あの日、有喜菜はマンションに帰り着いてから、冷蔵庫に買い置きしてあるチューハイとビールを浴びるように飲んだ。酔って理性を狂わせなければ、代理母なんて引き受けられなかったからだ。
 依然として分別ある自分は
―そんなことは止めるんだ。
 としきりに告げていた。
 一方で、あの男の子どもを生みたいという想いと紗英子がちらつかせた金は抗いがたい魅力となり、有喜菜の心を絡め取る。
 また、金と直輝の妻であるという立場をひけらかせて、自分を道具扱いする紗英子にも憤りと憎しみを憶えずにはいられなかった。
 どうしてあの時、紗英子が代理母の話を持ち出したそのときに毅然として拒絶できなかったのか。そんな気弱な自分が酷い意気地なしにも思え、自己嫌悪に陥った。
 有喜菜にしてみれば、酔っぱらって理性を麻痺させることで、何とかあの話に〝NO〟と言いそうになる自分を抑えようとしたのだ。だが、ついに自分を抑えきれず、携帯のナンバーを押したのが、一夜飲み明かした早朝だった。
 確か、あれは午前四時くらいだったと思う。携帯に記憶させてある紗英子のナンバーを押し、息を潜めて相手が出るのを待った。
 紗英子はなかなか出ず、呼び出し音が鳴るのを待つ間が永遠に続くようにも感じられた。
 時間が時間だから、出ないのも当たり前である。そう思って諦めかけた瞬間、
―はい?
 聞き慣れた紗英子の声が耳を打った。
 刹那、有喜菜は息を呑んだ。電話をかけたのは自分でありながら、おかしな話ではあるけれど、いざ紗英子が出ると何をどう話して良いか判らなかった。
―あの、話。
 名乗りもせずにいきなり切り出したのだが、そこは長年の付き合いだから、紗英子もすぐに判ったようだ。
―ええ。
 力強い応えが返ってきて、何故か、紗英子が少しも動じていないようなのが、かえって有喜菜の心を奮い立たせた。
 私はこんなにも動揺しているのに、難題を突きつけた紗英子の方は平然として、あたかも当然の要求をしたかのように構えている。
 そのことにひどく傷つき、向こうがその気なら、自分も受けて立とうと決めた瞬間だった。恐らく、紗英子は有喜菜が断るとは考えてもいないのだろう。だから、こんなにも泰然としていられるのだ。
 いっそのこと、この場でその裏をかいて
―やっぱり、あの話はお断りするわ。
 と言ってやるのも一興かもしれなかった。しかし、有喜菜は別の道を選んだ。
 私が断れないと判っているというのなら、それに乗ってあげるわ。でも、私は、けして誰にもできないことをするのよ。少なくとも、あなたにはけしてできないことを―あの男の赤ちゃんを産むのはこの私よ。
 それを忘れないで欲しいわ。
 そう言いたい衝動をぐっと堪え、有喜菜は心で考えていたのとは全く別の科白を口に乗せた。
―できるだけ早く進めてちょうだい。
 流石に、紗英子もこの展開には面食らったようで、困惑気味の声がしばらくして返ってきた。
―有喜菜?
―代理母の話よ。引き受けると言ったでしょう。だから、早く進めて欲しいの。
―そうは言っても―。
 口ごもる紗英子に、有喜菜は早口で告げた。
―決心が揺るがない中に、さっさと済ませたいの。あなたも判るでしょ。こんなことは、なかなか決断できるようで、できないことなの。
 少しの沈黙の後、紗英子が静かに言った。
―判った。私もどうせ、そのつもりなのよ。こうと決めたら、少しでも早い方が良いと思うのは同じ。でも、今は年末だし、とりあえず年明けを待ちましょう。 
―時間が経つのがこれほどもどかしく感じられたことはないわ。
 かなりの酒量を過ごしたので、呂律(ろれつ)も怪しくなっていたに違いない。
 やあやあって、紗英子が気遣わしげに問うてきた。
―大丈夫? お酒、飲んでるのよね?
 当たり前よと怒鳴ってやりたかった。こんなことは、とことん酔っぱらって正気を手放してしまわなければ、決断なんてできない。あなたを長年の親友だと信じていた私に、あなたはそれほどのことを要求してきたのよ。その自覚はある?
 だが、有喜菜はそうしなかった。ただ感情の高ぶりを無理に封じ込んで言った。
―少しね。
―少しどころじゃなさそうよ。そんなに飲んだら、身体を壊すでしょう。気をつけてね。
―へえ、私の身体を紗英が心配してくれるんだ?
 今度は長い沈黙があり、やや落ち着きのない声が聞こえてきた。
―当たり前よ、子どものときからの友達じゃない?
 嘘だと思った。親友であれば、代理母になれなんて頼めるはずがない。紗英子が有喜菜の身を案じているのは、あくまでも自分の子どもを宿すことになる〝器〟としての私を心配しているだけ。
 そんなことは聞かなくても判った。
―判った、せいぜい、これからは気をつけるとするわ。
 それ以上話すのも馬鹿らしくて、有喜菜は携帯の電源を切った。ツーツーという発信音を空しく響かせる携帯を放り出し、有喜菜は声を上げて泣いた。
 あの男の子どもを生むという事実と、途方もないお金と引き替えに、私は何を失ったの? 自尊心、それとも、小学校時代からの親友?
 いいや、そんなものは最初からいはしなかったのだ。それとも、最初は親友であった存在がいつしか自分たちも気づかない中に、そうではなくなってしまっていたのか。
 最早、どうでも良いことだ。有喜菜は涙を流しながら、何故か大切なものを永遠に失ってしまったような気がしていた。
あれから三ヶ月近くが経った。紗英子とは既に幾度もこのクリニックに通い、互いに励まし合った。
―きっと上手くいくから、大丈夫よ。
 何度、その言葉を唱え合ったかしれない。
 だが、表面上はこれまで以上に親密になれたと思えるこの関係が、実は上辺だけにすぎない空々しいものであることに有喜菜はとうに気づいていた。
 果たして紗英子は、それに気づいているのかどうか。有喜菜は、相変わらず涙ぐんで〝良かった〟を連発している紗英子を突き放した眼で眺めた。
 どうやら、あの様子では、有喜菜が醒めた眼で昔の親友を見ていることなど考えてもいないのではないか。
 全っく、どこまでもおめでたいというか、自分勝手な女。
 またしても苛立たしい想いに駆られながら、有喜菜は呟いた。
「喉が渇いたんだけど」
 紗英子がハッとした表情になった。
「あっ、そう? そういえば、そうよね。私ったら、気がつかなくて、ごめんなさい」
 紗英子は慌てて立ち上がり、傍らのバッグを手にした。