吉良吉田殺人事件
彼女のはだけた衣服を拾い集めた。そしてそれらをようやくのこと、彼女に身に着けた。もはや意識の無い女の体は、意外に重くわずかに衣類を身に着けさせるのにも戸惑った。島田の額や、体から汗が、溢れ出た。なぜこんなことに...島田の脳裏に繰り返し同じ思いが過った。しかし、それとは裏腹に彼の手足は、この目の前の事態をどう処理するかに奔走した。島田はいったん部屋の外に出た。幸い誰も人はいない。まずは彼女の体を外に出さなければ。島田はへの中に戻って、彼女を自分の背中に背負った。そして、その上から浴衣を羽織った。部屋から出ると、仲居の一人が彼に声をかけた。
「お客様、どうかなさいました?お加減でも...」
「い、いや。少し気分が悪いので、外に出てくる...」
そう言いながら、島田はとっさに思いついた。
「おい、お前のその服を貸してくれ。金はだす。ちょ、ちょうど着るものが無くなった所なのだ。」
「着るって、こんなもの...」
そう言う仲居に考えさせる余地もなく、
「いいから頼む。ほら金はここに置いておくからな、そう、その掃除道具も置いて行け。お、俺が片付けておくから。さあ、ほら、もういいだろ。」
島田は、必死だった。とっさに浮かんだ考えだったが、おそらくそれ以外に方法は無かった。
「職員用の通用口は、あちらだな。」
怪訝そうに去っていく、仲居の後ろから島田が声をかけた。
「へえ、職員専用のエレベーターもありますんで、何なら、そのシーツなども降ろして置いて下されば、有難い。まったく、今の若い人はわからねえ...」
終いに、吐き捨てるように、60を過ぎた頃の仲居が言った。その陰で、島田の目が一瞬きらりと光った。
「職員通用門に、専用エレベーターとは完璧だ。」
島田は合点した。その形相は暗闇の中で、汗と妖気にまみれ、修羅と化していた。
部屋の前に戻ると、島田は急いで浴衣を着せた洋子をカートの中に押し込んだ。その上から、汚れたシーツや、洗浄薬を乗せて、自分はたった今仲居が着ていた古びた甚平服をまとった。
頭の上から帽子を冠ると、傍目には誰の姿か見分けが付かなかった。島田はそっと廊下に出ると、だれも居ないのを見計らって、通路後部の職員専用階段に向かった。
「洋子、ごめんよ...」
ちゃんちゃんこを着て、汚れたベレー帽を冠った島田の目から涙が一つ流れた。そんな悲しみに浸る間もなく、今の島田は自らの考えを行動に移すしか無かった。
通用門から出ると、そこはすぐに駐車場になっていた。島田は急いで自分の車を探した。日は、すっかり沈み、辺りには誰もいない。幸い島田の車は通用口のすぐ側に在った。白い古びたセダンに向かって、鍵を開けると、急いで洋子の体を後部座席に押し込もうとした。ぐったりした洋子の浴衣の隙間から、はだけたふくよかな太腿が露わになった。まるで、まだたった今過ぎた情事のあとが残っている様な柔らかな肌を見た時、島田に再び、言いようの無い悲しみが込み上げた...
急いで通用口に、取って返しエレベーターに乗ろうとした、その時、誰かが後ろから島田の肩をたたいた。
はっと、思って振り返る島田に、
「こんにちは...!?」
と、声を掻けたその女性は、
「あ、あら、幸さんかと思ったら違うのね。あんた、その幸さんの服を着て何をしているの!?」
そう、怪訝そうに島田の顔を覗き込むようにして尋ねる彼女に、島田はとっさに切り返した。
「は、ハイ。ぼ、僕はアルバイトで、幸さんから作業着を借りて、これを捨てに来ました...」
そう言って、カートを指差した。自分の顔が青ざめているが、必死でそれを悟られないよう平静を装う自分に気付いた。
「あら、アルバイトなんて聞いていないけど、シーツ置き場ならあちらよ。私も手伝ってあげようかしら...」
彼女の眼差しから、まだ不審の色は消えていない。
「い、いいえ、結構です。自分でやれますから...」
そう言って、島田は山の様に重ねてあるシーツ置き場に向かった。シーツ置き場にカートを置き去りにして、急いで仲居の服を脱ぎすてると、カートの脇に押し込んでおいたジーパンとベレー帽に着替えた。ロビーで急いでチェックアウトを済ませて、車に乗り込んだ。海岸線へと向かうと、駐車場の反対側に小さな神社が見えた。その後ろには防波堤を挟んで、黒い海原が広がっていた。洋子の体を車から引き出して、防波堤の上まで上げると、そこからは一人で海辺の岸まで運んだ。悲しげな微笑みを残したままの洋子の体は重かった。そんな彼女の重みを感じる間もなく、今は一刻も早く彼女を海に葬り去ることしか島田の頭には無かった。誰にも見られてはならなかった。早く...!月明かりの下で、海面が揺れながら金色の光を反射していた。その光に揺られるようにして、島田が押し流した洋子の体は、ぷかり、ぷかりと海面に浮いたまま、沖に向かって流れて行った。この辺りの潮は、穏やかだが自然と外海に向かって
いるらしかった。やがて、洋子の体は暗い大海原の向こうに消えて、見えなくなった...
「ふー...」
いくらか安堵したらしく、島田は大きく息を付いた。天空に浮かぶ月を眺める余裕も無く、白いセダンを走らせた。後は、どうやって来たのか分からない。気が付くと、長野行きの列車の中だった洋子の体は、沖へ沖へと向かって、月明かりの名を漂って行った...
島田は、現場から離れることだけを考えた。いずれ分かってしまうだろう。それも仕方のないことだ...島田には覚悟の様なものがあった。
「これで、俺の人生は終わりか...」島田に重苦しい思いが込み上げた。
「一体、俺の人生は何だったのだろう?」
と、思うそのそばで、一人の男が立っていた。
「あのう、どこが御気分でも...」
そう、声を掻けた男の顔はにこにこと輝き、まるで島田にはこの世の救いの様に思えた。
「あのー、どうかされたのですか?顔色が悪そうだったので...」
「だ、大丈夫です。少し、久しぶりの旅で、列車酔いでも...」
「ああ、乗り物酔いの薬なら持っていますよ、おーい信子。お前の鞄に酔い止めの薬無かったかー?」
座席越しに大きな声で呼びかける京太郎に、困惑した島田は、
「あ、あの。結構です、放って置いて、いや、あのそっとしておいて頂ければすぐに治りますから。」
すこし棘のある口調に、島田は自分ながら驚いた。
「あ、ありがとうございます...」
島田はバツが悪そうに、言いなおした。
「...かえって余計なことをした様で。」
京太郎は納得のいかない、という顔を残したまま妻の待つ席に戻った。
「あなた、トイレに行くと言ったまま、なかなか戻ってこないのですもの、どうしたかと思いましたわ。そしたら、いきなり知らない人に酔い薬だなんて、常識が無さ過ぎます。」
「...そうか、悪かった。」
「それに、あの人少し、様子が変ですわ。」
信子の方がすでに、島田の異変に気付いているようだった。
「分かった。」
素直に頷く京太郎だった。
「いずれ分かってしまうだろう。」