吉良吉田殺人事件
「ええ、今日は大丈夫だわ。一日中。それにこうしてあなたとも、巡り合ったのですから。」
洋子は、そう言うとなまめかしい微笑みで、島田の方を見詰めた。
二人は白いベッドの上で、互いの愛を確かめ合っていた。全く自然な成り行きだった。どちらからともなく、そうせざるを得なかった。しいて言えば、互いに不足した部分を補い合う、あるいは、傷ついた者同士が互いに傷をなめあうと、言ったらよいだろうか。二人はこれまで渇いていた互いの欲望を求めあった。そして、それは十分に満足するものだった。二人は同類だった。全くこの様に波長を同じくする者がこの世に居たのかと不思議に思えるほど似た者同士であった。互いの波長がこの海岸に向かって引き寄せたような、計らいを感じた。と同時に、これまで巡り合わなかった偶然にも驚きを覚えた。
「あと、5分」
「ええ、いいわ。5分だけ我慢するわ。」
互いに求めあい、終着点に向かって心と体の律動を合わせる時、二人は至上の幸福感で満たされた。そして、やがて二人が臨界点を迎えたとき、肉体の戦慄が島田と洋子の体を内側から電洸のごとく揺さぶった。全身全霊で互いの愛を交換した時、二人の心と体は一つになった。それはまるで、水平線に沈む夕日に全身を打たれたような、恍惚と陶酔を伴うものだった。
二人の愛の行為の後、洋子はぐったりとベッドに横になったままだった。
「私、こんなのは初めてだわ...」
洋子が少し紅潮した頬に、幾らかの疲労を浮かべて、言った。
島田も、まだ息を荒らくしたまま、汗ばんだ体を、洋子から離した。
「僕もだ...君とは、まるでずっと以前から知っているような、兄弟のような気がする。」
「兄弟は、こんなことしないわ。」
洋子が少し意地悪そうに、島田の方を向いて言った。
「あ、そうか。ごめん、もちろん、その詰まり..君がそれだけ素晴らしかった、ということさ。」
「私も、とても良かったわ...」
洋子が島田の眼の奥をじっと見つめて言った。今までの自分がまるで嘘のように、彼女は島田の前で大胆になっていた。
「私、あなたのこと好きになったわ。ずっと前からそうだったみたい。」
「僕も、同じだ。」
島田が答えた。
二人は、どれだけの間、そうしていただろうか。遠く、海岸越しに波の音が聞こえる...
夕暮れ時を過ぎた時、二人の間に時間の感覚は無くなっていた。
島田が洋子とともに、緑の海岸を目の前に、屋上まで続く展望エレベーターのそびえる”竜宮ホテル”のロビーにやってきたのは午後6時を過ぎた頃だった。玄関を入るとフロントの男が人のよさそうな笑顔で迎えた。特別不審げな様子は無かった。おそらく何組もの若いカップルがこのホテルを行き来するのであろう。二人はごくありきたりのカップルとして迎えられた。島田が宿帳に住所と名前を記し、そのあとに同伴者一人と書いた。彼女の名前を書こうと洋子の顔を見上げた時、フロント係りが、
「あ、それで結構です。」
と制した。
「705号室でございます。お向かいにエレベーターがございます。今、係りの者が参りますが、お手荷物などはございますか?」
島田に鍵を渡しながら、男が言った。
エレベーターのドアーが開き、二人と着物姿の仲居とが中に入り込むと、彼らを乗せた小さな乗り物は青い海を見下ろしながら、一気に七階へと上がった。
部屋に入ると、再び二人はベッドに入った。
彼らが互いに求めあうものは止めを知らなかった。ほとばしる情愛を互いに与え、そして奪い合った。二人が再び臨界点にたどり着こうとした時、異変が起きた。
洋子が、あえぎながら島田の目を見詰めて言った。
「あと一分、後一分待って。」
「いいよ、後、一分...」
島田が汗ばんだ体を洋子の胸に寄せながら言った。二人の体は一つになって、互いのリズムが打ち寄せる波の様に胎動していた。どうしてこの女性とはこんなに波長が合うのか、島田は不思議でならなかった。島田の突き出した圧力はそのまま彼女の体に伝わり、それは再び新しい隆起となって彼の元に戻ってきた。自分の体と彼女の体はまさに一つとなって、互いの律動を繰り返していた。
「後、一分。」
そう言った後、彼女は島田に懇願した。
「お願い、ここを閉めて、きつく。」
彼女は自分の首を指して、そう言った。
島田は始めその意味が、分からなかった。
「お願い、早く...」
彼女は島田の目を食い入るようにして懇願した。その眼差しは、他を許さず、島田の心の奥をじっと見詰めていた。
「わ、わかった。こ、こうか....」
島田がおそるおそる、自分の手を彼女の首に触れた。
「も、もっと。強く、両手で...」
彼女が再び、懇願した。
島田は今度は、両手で、洋子の細い首に触れた。
「あ、ああ、いい..もっと、強く。」
島田は少しだけ、両方の手に力を入れた。
「こ、こうか!?」
「強く。もっと、強く!」
島田の胸に、理由の無い恐怖心が訪れた。体から汗が噴き出した。
洋子の体がのけぞり、彼女のふくよかな胸が島田に向かって露わになった。言い様の無い恐怖心に襲われながらも、島田は夢中でかの情が望むように、自らを任せた。自分の体が一瞬、とけるかのように、彼女の中に埋もれて行った。その瞬間、洋子が絶叫のごとく、声を上げた。
「ああ、いい、もっと...!」
そして、次の瞬間、島田はついにその臨界点をこらえきれず、自らの突き上げる欲情を彼女の体に託した。
「..洋子!」
思わずそう叫んだ島田は、その瞬間、彼女を握る両手に力が入った。
「ああ...」
悲しい叫び声を上げて、洋子の体はそのまま動かなくなった。
「洋子、洋子...!?」
島田は、恐る恐る、血の気を失った洋子の顔をたたいた。しかし、その色白のまだあどけなさの残った彼女の顔は、二度と彼に語りかけることは無かった。
「し、死んでる!!」
島田は驚きと、恐怖とで思わずベッドの上でのけぞった。
「ひ、ひゃー...!!」
悲鳴を上げそうな自分を、ようやくのことで堪えた。
島田は暫くその場に立ち尽くした。その後のことは殆どど彼自身覚えていなかった。
島田は急いで身支度を整えた。どういう具合に洋服を身にまとったのかもほとんど覚えていなかった。気が付くと、一人一階のロビーに立っていた。頭の奥に、洋子の絶叫した、しかし、もはや息をしない肉体が、ふくよかな胸をはだけながら、硬直したたまま横たわっている姿が浮かんだ。悲しみと喜びの入り混じったその顔を思い浮かべた時、島田はなすすべを知らなかった。島田は急いで部屋に取って返した。
彼女の乱れた身なりをわずかに整え、部屋の外を伺った。辺りには誰もいなかった。しかし、このまま彼女を放って置く訳には行かない。島田の頭の中が目まぐるしく動いた。一体自分はどうしたらいい!なぜこんなことに...今の島田にその理由を考えている余裕は無かった。ただ、この事態をどう処理するか、そのことだけに島田の思いは駆け巡った。