夢幻忌憚
その小さな思いつきを実行すべく自室の箪笥を開けたところで、けたたましい音を立てて引き戸が開かれた。
「小弥太様、ご無事ですか小弥太様!」
余裕のない嗄れ声に訝りながら、玄関へと足を運ぶとそこには菊の家で長年奉公している番頭が立っていた。どうやらあちこち怪我をしているようで、着物が所々血に染まっている。
「どうしました……? そんなに慌てて」
驚きながらも訪ねた自分の姿を見て、番頭はほっとしたように一瞬顔を緩め、そして恐怖に歪めた。
「御店が…、旦那様達が、山賊に……!」
反射的に無我夢中で家を飛び出した。後ろで自分を呼ぶ声も遠く、弱り切った身体が、足が悲鳴をあげるのも聞かず、生まれて初めて心臓が潰れそうな程駆け抜けた。
どのくらい走り続けただろう。意識が白く朦朧としかけた頃に、ようやく見覚えのある屋敷に辿り着きその荒れ果てた様に足が竦んだ。
いつもなら、大きく開放された戸口で愛想の良い店番が笑顔で声を掛けてくれるのに、今は木戸が外れて倒され、店中の品物が床に投げ捨てられている。奥からは勘に障る悲鳴がそこかしこから聞こえて、入り口の荒れ果てた様子から最悪の状況を彷彿とさせていた。
一歩、踏み出す。
足裏に何かを踏んだ感触がしても止まらず、入り口よりも酷く荒れた屋敷の中に踏み入れた。
最初に感じたのは、臭気。
むっとした、籠もったような鉄錆の臭いと微かに混じる香の匂い。
そして、その臭気を漂わせる数多の死体。男も女も区別なくそこに打ち棄てられ切り刻まれ無残な姿を晒している。すべての死体が眼を見開き恐怖を浮かべた表情のまま事切れていた。生前、そんな醜い顔など、一度も見たことがなかったのに。
そして、気付く。
番台に凭れるように俯せで倒れている、一際大柄な身体。
「……おじさん?」
吐き気を堪えながらゆっくり近づき、震える手を伸ばして顔を仰向かせた。
「ーーヒッ」
予想していた顔かどうかは、判らなかった。顔面は鉈のようなもので力尽くで潰されており。眼はくり抜かれ、鼻は削ぎ落とし、舌も引き抜かれて口の中から止めどなく血が溢れて、上等な着物をはしたなく汚している。顔だけでは、判別は出来なかった。ただ、この死体が着ている着物、それだけがこの屋敷内の誰なのかを示していた。
「おじ……さん」
口の中が乾いて、舌が上手く回らない。長い距離を走りきって暑い筈なのに、今は凍えるような寒気に襲われている。
ガタガタと酷くなった震えを止めることもできず、再び周囲に眼を配れば、また、気付きたくもないものに気付いてしまった。
他のみなが外へ向けて倒れている中、一体だけ中に向かって倒れているあの女性。こちらからは赤く染まった着物の帯しか見えない。でも、それが誰なのか自分は知っている。
「おばさん……」
眼を見開いて、馬鹿なと呟く。嘘だと思いたかった。悪い冗談だと、誰でもいいから笑い飛ばして欲しい。何故、何故! 叔母はあの夢と同じ死に方をしている。
「熱っ」
急に左肩に焼き鏝を当てられたように痛み出した。
右手で肩を押さえ、激痛を堪えながら先を進む。玄関にはおじさん。廊下にはおばさん。では、あの子はーー。
「菊……」
頼むから、彼女だけは……!
さほど距離はない筈の彼女の部屋が、今は厭に遠い。通り抜けてきた部屋達は、まるでこの世の地獄のように残酷で、凄惨な有様だった。
耳鳴りがする程聞こえていた悲鳴や呻き声は、もう聞こえない。押し入った山賊達はめぼしい物を攫い、残りは用無しとばかりに棄てられ踏みにじられている。人は、更に酷かった。逃げようとした者は大概背中から斬り殺されていたが、中には抵抗した者もいたのだろう。そういう者はことさら念入りに、嬲るように遊ぶように惨殺され、もはや肉塊と言っても差し支えない程に変えられている者もいた。
(こんな、こんなこと、同じ人間ができることじゃない!)
痛みに歯を食い縛り、何度も失いかける正気を必死で保ちながら、夢と同じように鮮やかな鮮血で染まった室内を歩き続ける。
足を進めるごとにぬるりと深く、絡みついてくる赤に自分はまた夢を見ているのではないかと錯覚し始め、その度にひりつく痛みがこれは現なのだと知らしめていた。
……希望は、まだ叶うだろうか。
永遠にも感じた距離も、もう眼の前に差し掛かった頃。
ふと、今までこそりともしなかった世界に、不可解な音が響いていた。
ネチャネチャピチャピチャと何か粘り気のある物を捏ねるような、ギチギチと弾力のある紐を力任せに引っ張っているような、そして、何かを叩いているのか場違いなほど軽い音と。
ひやりと、首筋を何かが通る。
本能は、逃げたいと叫んでいる。理性は、確かめろと叱咤する。
ゆっくりと、極度の緊張に荒ぐ息を堪えながら近づいていく。元は美しい絵が描かれていただろう襖はすでに狂気に塗れて、半開きになったまま。先から聞こえている音は大きくなり、誰かの濃厚な気配が揺らめいているのを感じ取った。だが、心底から無事を願う者の声は、まだ聞こえない。
ドクドクと心臓が激しくなるに連れて、左肩も連動するように熱が高まる。押さえていた右手をみれば、掌が血に濡れていた。
「……菊?」
囁きながら、壊れかけた襖の向こうを覗き見て。
眼が、合った。
仰向けに倒れながら、横向きにこちらを見る、紫水晶の瞳。
いつも澄んだ輝きを宿す美しい紫が、今は濁りきって、ただこちらを無感動に見詰めていた。
「菊……?」
呼びかけた、その瞬間。
ゴトリ、と重い音を立てて菊の首が転がった。
「……え?」
唐突に身体から切り離された少女の首が、小さく曲線を描いて転がり、そして止まった。更に気がつけば、元は少女の身体であった者に何者かが跨がって、引き裂かれた小さな胸に手を突っ込み臓腑を引っ張り、遊んでいた。
少女が気に入っていた黄色の着物は脱ぎ捨てられ、朱に濡れた白い肢体は獣の下で小刻みに揺れている。その、大きく開かされ獣を挟むように揺れる爪先が何を示しているのかに気付いて、思考が、止まった。
赤い、紅い、朱い、アカイ。
熱い、熱い、熱い、アツイ。
ついに、幼い死体を陵辱する獣の、その眼は。
「ア、アア……。アアアアアアアアア!」
妖しく濡れたように底光る、深紅。
そこで、正気が潰えた。