古着抄
空気を揺らすそれを、そこにいるものが聞き取った。お互いに目配せをしあい、段ボールを見つめる。
意を決したように、小紋のふくよかに幼い手が、そろそろと揺れる段ボールをひっかけて、覗き込む。
「まあ!」
何枚か重なったたとう紙の下のほうから、一本の紐の房が見える。ぼんやりと光をまとい、蛍のように点滅した。
……知ってるよ!
声はそこからした。
小紋の指先が触れると、ぽよんと光が飛び出す。
段ボールの縁に腰掛けるように、童子が足を揺らしていた。
「おお。坊主。出戻ったのか?」
「あら! まあ。お帰りなさい」
「出戻り、違う!」
小さな指が、鋭く御召を指した。
「まあまあ。あんた、丸帯と一緒に買われてったはずだね?」
「黄八姉! まだいたの!?」
驚きと喜びに、言われた方は、こめかみを微妙にひきつらせて笑う。
「いたのよ。お帰り。……って言っていいものかね?」
「ただいま!」
「相変わらず、元気がいいわね。坊」
「雪輪の姉ちゃんも、相変わらずのんびりしてるな!」
「坊の賑やかさは、どこへ行っても相変わらずですわね」
「お嬢さまも、お変わりなく」
どこか改まった様子も芝居がかって軽く一礼をした後、目が合うと、にっと、悪戯っぽい笑みを向けた。
「……、で? なんで、出戻ったんだ?」
「出戻り、違う!」
「何しでかして、戻されたんだ?」
「何もしてないよ!」
憤慨したように食って掛かる少年を楽し気に笑ってみている御召を、黄八丈が苦笑を隠さずにたしなめた。
「せっかく帰ってきたんだから、歓迎してあげようよ」
「黄八姉! 全然、味方になってない!」
わっと、温かい和やかな空気がいっぱいに膨らみ、ポンと破裂するように弾けた。穏やかな感情の起伏が落ち着いてから、小紋が話を戻した。
「坊は、確か、格上さまと一緒に見受けされたのよね? それで、どうして、坊だけ戻ってきたの?」
すうっと、歓迎ムードが消え、代わりに、興味津々の好奇心がそこかしこの隙間や観音開きの合わせ目や引き出しから覗いた。
その変わり身の早さに、思わず、坊が言葉を選んで言いよどんだ。
まだかまだかと、急かすような気配が、にじり寄るのを察知して、無意識に頬を指で掻いて、やがて、諦めたようにぎこちなく笑って、思いもしない爆弾を投下することになる。
「切り刻まれた!?」
異口同音に悲鳴に似た呟きがこぼれ、あちらこちらの隅からにじみ出た気配が驚き一色に染まる。
「切り刻まれたって……」
誰もが次の言葉を失う。
「それがさ……」何とも言い難そうに口ごもった後、あらぬ方向に視線を逃がして、告げた。
ざわりと、気配が身じろぐ。あれほど、高慢で誇り高い丸帯がそんな扱いを受けてさぞかし嘆き悲しんでいることだろうと思った。が。
「喜んでた!?」
「けど……」
「しかし……」
「いや、それよりも、一体、何にされたんだい?」
散った気配が再び童子に集中する。
「うん。洋服なんだけど……」
悲鳴に似た、切り裂くような空間が震える。由緒正しい工房で織られたそれは、その身の上にふさわしい由緒のある家に是非にと請われて、誂えられたものだった。……らしい(本人? 談)。
常々、言葉にしていたことといえば、洋服など下々の纏うもので、高貴なものがそのような下賤の衣装を召すなど言語道断、なのだ。
「……うえでぃんぐ・どれす? っていうのらしい。なんでも花嫁さんが着る、洋服の打掛みたい」
「洋服の……」
「……打掛」
「洋服の、打掛?」
浮足立っていた部屋の空気が、一気に収束する。総鹿の子絞りのお袖がぱたりと音を立てる。
「知っていますわ」
一つ頷いて、集まる倉庫中の気配に臆することなく続けた。
「この頃、わたくしたちを洋服に作り替えてお召しになる方もいらっしゃるのですわ。わたくしを召してくださったお嬢様のお友達が洋裁をなさる方で、ご婚礼でご自分の衣装を御作りになるとおっしゃって、打掛を洋服に仕立て直されていましたわ」
そこここから、恐ろし気に震える気配がたつ。
「それが、思ったよりも悪くないのですわ。不思議ですわね。とても、大切にされている気持ちが伝わってくるのですもの」
「そう、……んなもの?」
思わず、考えなしに相槌を打とうとして、思い直した小紋が確認するように尋ねた。
「ええ。その時は打掛でしたけれど、丸帯も打掛になるわけですから、用尺は足りるのではないかしら」
今一つ、納得できない気配の中で、一人大きく頷いて感慨深げに呟くものがあった。
「……、そうかい。ようやく、主人公になれたわけだ」
なお一層、目元を涼しくした御召だ。
「ああ、そうだね。あの子、自分のほうがあたしらなんかよりもはるかに格が高いもんだから、お高く留まっていたいたのかと思ったけれど、本当は、自分が主人公になれないことが、悔しかったんだもんね」
「ですが、着物は帯あってのものです。いくら、引き立て役だといっても、着物のほうだって、それに見合う帯がないと……」
そこまで言って、それ以上の言葉を継ぐことは許されなかった。
鋭い刀身が差し込まれたと思った。闇を切り裂く光が、穏やかな空間を霧散させた。
「っ!?」
ごとりと扉にぶつかる音と、飲み込んだ息。止めたドアの隙間を、そろそろと大きく開く。じっと、闇を見つめる一対の瞳。
ぱちりと壁のスイッチが押され、何度かのウィンクの後天井の蛍光灯が部屋全体を暴き出した。
「ちょっ!」
くるりと、部屋に背を向け、光の向こうを大声で呼んだ。
「ちょっとー! あきちゃん! あーきーちゃーん!」
ややあって、軽い足音が近づく。
「何ですか? 店長」
「見て、これ」
扉を大きく押し開いて、部屋を明らかにする。何だろうと覗き込んだあきちゃんが、うわぁ、と、口元を押さえた。
古い桐たんすの観音開きの戸の隙間から、どうやって引き出したのか、古着の袂や裾が引き摺り出ている。
黄八丈の赤い八掛がぺらりとめくれており、古い男物の御召の襟元がぐずぐずに乱れている。期待をもって仕入れた総鹿の子絞りの小紋の袖に入った刺繍が見えた。そこに、大分、色焼けしている無地の紬の着物が重なっていた。
引き出しにも隙間が空いており、そこからたとう紙の紙が覗いていたり、中身が見えている。
スチールの棚に並んだ段ボール箱は蓋が開いており、そこここに無造作に積み重なったウコン染めや褪せた藍の風呂敷の結び目は解けかかっていた。
「どうしたんですか? 店長。折角、片付けたのに、あんまり散らかさないでくださいね」
「ちょっ! あたしがやったの?」
「だって、店長に言われて、片づけたばっかりですよ?」
「あたしだって、今、開けたばっかりよ」
「さっき、段ボールもって入っていきましたよね?」
つかつかと、部屋に入り込み、中心にどんと設置してあるテーブルの上の段ボールを開けて見せる。
「これを置きに来ただけよ」
はらりと、縁にかかっていた濃紺の見事な真田紐が滑り落ちた。
それをざっくりと拾い上げ、箱に戻す。あきちゃんが、段ボール箱を引き取った。
「ネズミじゃないですよね?」
「変なシミとかついてないから、それはないと思うわ」