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小山ユイタ
小山ユイタ
novelistID. 42945
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アルハンブラガルデ Ⅰ 深緑の少年

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後ろを振り返って道程を見る意味をなさないほど、未踏の奥深くまで歩いてきた。すでに日は落ち、自分の体が溶けてしまったかと思うほど視界は暗い。この地帯の夜は凍るように寒いが、カゼンは野ざらしでも絶えうる宵越しの備えなど持ち合わせていなかった。まさに後は野となれ山となれである。

(ー何もなければ、ここで俺は終わりだ。)

だが惜しい命ではない。カゼンは自蔑気味に思った。
これまで奪ってばかりの人生だった。この1年近くは真逆のことをしようと試みてきたが、壊すことはいとも易く、治すことははるか難しいとつくづく思い知らされた。
カゼンはもしかしたらもう戻ることがないかもしれない生家を思い浮かべた。失われたかと思われた祖父の技術は、古びた一冊の書物としてひっそりと生家の片隅に遺っていた。手から血のにおいが消えるまで、なかなか触れる気にはなれなかった。その書には薬草の種類や調合方法、さらには手術の指南まで、いつの時代に書かれたのか定かではない癖のある旧字で細かく書かれていた。治療薬の生成と平行して祖父の遺産でもある薬草学書を研究したが、明らかにこの土地では手に入らない謎の種類や、見たことのない器具が少なからず登場する。その事実を目の当たりにした時カゼンは、閉ざされたこの世界の在り様を鼻先に突きつけられたような苦い思いをするのだ。

世界は『平和のために』切り離された。
誰かの大切なものを奪わずにいられないのなら、もう欲しがることのないように、お前から隣人を取り上げてしまおう。
そうすればお前は奪えない。自分を慈しむか、蝕むか、永久にどちらかだけ・・・ーーー


その時、眼前に明らかに異質な気配を感じて、ふと意識を現実に戻した。

この先に何かの空間があるみたいだ。カゼンは暗闇に慣れてきた目をこらし、草や枝を払いのけながらそこまで進んだ。

カゼンがたどり着いた先には、澄んだ池が広がっていた。その中から驚くほど巨大な木の幹がそびえていた。あまりの大きさにカゼンはしばらく絶句して大木を見つめていた。
さらに驚くことにその大木は、うっすらと内側から光が漏れ出して発光しているようだった。そしてまじまじと見ると、それは大木等ではなく、池から生える水草の茎がまるで筋繊維のごとく均等に絡み合って伸び、大木の太い幹と見間違うほどだった。

こんなおかしなものは見たことも聞いたこともない。カゼンが唖然としていると、

『 ヤ ク シ・・・ 薬 師 ・・・・ 』

あの声が今まで一番はっきりと耳管に響いた。声の主はどこにいるのかはっきりとしない。水面が震え、どこからともなく聞こえてくる。

「どこにいる。なぜ俺を呼ぶ。」

カゼンは構えていた右手をほんのわずか手前にずらした。カチリと鞘の中から金具が外れる音がした。

『 薬 師・・・    盟 約を・・・ 
   よ く・・・     育 て た・・・  』

声は力強さを増し、ひと言発するたびに周囲の木々が揺れ、鳥の騒ぎ飛び立つ音が響いた。

「盟、約? 何を言ってる、じいさんはここで何をしていたんだ!」

カゼン思わず槍の柄から手を離して、こぶしを握り声の主に向けて叫んだ。

その時、あの大木から、ギリギリと何かを締め上げるような気味の悪い音が鳴った。茎同士の隙間から光が溢れ、大木を模した植物群は空気を含んだように形を膨らまし、ギリギリと音を鳴らしながら全体がほどかれていった。闇に慣れた目にはあまりに眩しく、何が起こっているのかカゼンはすぐに理解できなかった。

『 触 れ ろ ・・・ 薬 師 ・・・   触 れ ろ ・・・  』

声の主は命令した。
何に触れろと言うんだ、混乱するカゼンがそう声を荒げようとしたとき、光の固まりの中に、目鼻口がうっすらと現れていた。

人だ。
あの中に誰かが入っている。

それはまことに信じ難い事象だった。樹海深く不気味な池にそびえる、植物の集合体のような奇怪な生命の中に、人の形をした生き物が孕まれているのだ。

『 触 れ ろ ・・・  』

声は命令を続ける。常軌を逸脱する出来事の連続で、凍えた手足とは対照的にカゼンの頭の中は全力で熱が駆け巡り考えがまとまらなかった。一瞬、幼い頃に見た祖父の横顔が脳裏をよぎった。落窪んだ瞳には底知れぬ闇と燃えるような一点の輝きが潜んでいた。

光は体温が届いてくるように温かかった。夜道を歩き尽くしたカゼンの体には心地よく滲みてくる。カゼンは導かれるように池の中へ足を入れ、温かく光る植物群の光の腹へ向かっていった。

目の前までくると、中の人は蔓に上体を吊るされて外へ上半身を出していた。
眩しさに慣れてきた目には、その人は、真っ白で平坦な少女に見えた。顔にかかる豊かな髪やまつ毛も光るように白く、大きな瞳と小さな口は閉じられ、陽に当たったことのないような細く白い腕や脇腹も剥き出しになっている。

『 触 れ ろ ・・・ 薬 師 ・・・   』

カゼンは一瞬眉をしかめた。この美しく清浄な生き物は、人間か?魔物か?
しかし、カゼンはすぐに、ここから救い出さねばと焦りのような思いに突き動かされた。ゆっくり手を伸ばし、少女の頬に触れた。

生きている、そう安堵した瞬間、カゼンの心臓が突然暴れ出した。かと思えば、激しく痙攣を起こした。脳髄がねじり潰されんばかりに全身がすみずみまで硬直し、息が詰まった。
地震?雷撃?手を触れる少女から洪水が流れてきたかと思えば、カゼンの全身からも鉄砲水が噴出し、触れ合った部分を通してお互いを滅茶苦茶にかき回すとてつもない衝撃が巡り巡っているのだ。

『 務 め を ・・・  果 た し て・・・も ら う ぞ・・・   』

声は重く唸った。

「っが・・・ ぐっ・・・・ 」 
身動きがとれないカゼンに、今まで吊るされたままだった少女がゆっくりと両手を伸ばした。か細い肢体があらわれ、カゼンの両頬を包み込んだかと思うと、目を見開き、カゼンを見据えた。少女の煌めくエバーグリーンの瞳と、カゼンの黒曜の瞳は一筋の道を作った。

光が爆発し、濁流の中に身を投げ出されたようにさらに自由が奪われた。目も耳も機能を失いそこにある意味をなさず、意識を保つ限界にきていた。少女はカゼンに体を寄せて、うっすらと微笑みながら、小さな口から大人びた声で囁いた。
(「 ずっと待っていた 」)


(「 ふたりで 」)

(「 世界を解放する 」)


その意味を理解し得ない内に、カゼンは光の渦に飲み込まれ、綱を手放すように意識を失った。樹海の奥から呼んでいたあの声は、最後笑っていたと思う。