街灯
さらに何年かたって、あの日の老人は来なくなった。温泉町にいたその老人は、亡くなっていた。落書きを消すものはもう、だれもいなくなってしまった。もう一つの街は、管理できるものがいないという理由でずいぶん前から手入れをしていなかった。しかし、街灯がそのあと錆びることも朽ち果てることもなかった。
子供がいた。
母親に手を引かれた子供、男の子だ。
その子供は、街灯をはるか上に見上げて、指差した。そして、母親にこう言った。
「これがおじいちゃんの街灯?」
そうよ、と母親は答えた。おじいちゃんが、頑張って、二つの街の誇りであるこの街灯を守ってきたの。でも、もう誰もこの街灯を手入れできる人はいないのよ。そう言った。
すると、子どもは答えた。
「じゃあ、ぼくがやるよ」
そう言って、男の子は学校の通学鞄の中に入っていたクレヨンを取り出した。周囲に生える草と同じ色、丘の上に立つ木と同じ色、緑のクレヨンだった。
男の子は、そのクレヨンを使って、きれいに磨かれた街灯の足に、こう書いた。
「てつや」
それは、男の子の名前だった。
その字は、消えなかった。誰も消すものがいなかったからだ。
てつや、と、街灯に記したその男の子は、祖父が死んで、葬式が終わった次の日から、通学前に仕事を始めた。街灯の手入れをする道具を持って登校し、そして、朝早くから作業をした。だれも手入れの仕方など知らなかったから、どの道具をどこでどのようにつかうのかを考えながら、ひとつひとつ、謎を解くように覚えて行った。やがて、少年は二つの街で唯一、街灯を手入れできる人間になって行った。
少年からは、温泉の匂いがした。毎日入っているのだろう、その温泉の湯で磨くと街灯はいつもよりもきれいになった。だから、重い水を街からここまで運んできては、雑巾につけて街灯の足を磨いていた。
そうして、いつしか少年は老人になった。
老人は、街灯の下に腰かけ、朝日に当たりながら吹き抜けるさわやかな風に心を晒していた。何も考えずにただ、自分の体に当たる風だけに感覚を向けていた。
老人は、ふと、街灯に触れた。
そして、こう言った。
「寂しいねえ」
愛おしいものを撫でるようにして、老人は街灯をさすった。何も答えは返ってこない。しかし、構わずに続けた。
「孫娘が嫁に行っちまった。でも、お前さんは寂しくはないんだね」
老人は、そう言って笑った。
優しい笑みだった。その笑顔を、街灯は知っていた。この老人の祖父が、街灯の手入れを終えた時に見せる笑顔だった。
世代は変わり、心は受け継がれるものだ。それがどんな形であれ、人々がそれを大切に思う限りは、おそらく永劫に続くものなのだろう。
最後に、老人はこう言った。
「いっしょに、いてくれるかね、そりゃあ、ありがたい」
老人は、そこで、動かなくなった。
寂しくない、満足そうな笑顔を残して。
その老人を、街灯は見ていた。
長らく刻まれていたクレヨンの文字は、消えていた。つい先ほどまでくっきりとのこっていたその文字が、きれいに消えていた。
街灯は、一つの命に寄り添った。
そして、風の力を借りて、歌を歌った。それは優しく空気を揺らし、その振動は命の躍動を伝えるゆりかごとなって二つの丘を吹き抜けて行った。
街灯は、見ていた。二つの丘を越え、二つの街をはるかに見下ろす天蓋に、命が息づくのを見た。そして、再び何かとつながってゆくのを見た。
雲は流れ、風はゆく。火はのぼり、また沈みゆく。光の中で光を灯し、残り月の現れる時間をゆったりと照らしている。陽のなくなってきた早朝に、ガス灯は最後の瞬きを見せていた。わずかに残った影を、太陽が昇るまで消す役割を担っていた。
何度目の最後だろう。
ガス灯は毎日最後を迎え、そして何度も人の世代の交代を見守ってきた。
街灯は、火を灯し、その足ですくりと立って、全てを見守ってきた。
今夜もまた、何かの始まりと終わりを、その街灯は見るだろう。
何も答えずに、見るだろう。