朝日に落ちる箒星
7.星野美夏
「久野君」
彼の広い背中に向かって、少し大きめな声を掛けた。講義が終わったばかりで人がたむろする教室で、周囲の視線を集めてしまった。
彼はくるりと後ろを振り返り「なぁに」と眉をあげている。何をしても、素敵だ。私は階段状になっている通路を降りて行き、彼の隣に座った。
「何?」
少し訝しげな顔をされた事は気に入らないけれど、その訝しげな顔そのものは気に入っている。時々見せる、この顔。
「あのさ、今の講義のノート、全部書いた?」
正面から覗き込むようにして顔を傾けて訊くと、彼は私から目線を逸らし「書いたけど、何で?」とノート類をゴムバンドでまとめながら訊ねる。私には全く興味がない、そう顔に書いてあるようで、何とかして振り向かせようとする気がムクムクと湧いてくる。
「私、書くのが遅くて、書いてるうちに消されちゃったところがあって。久野君なら書き写してるかなって思ってね。ごめんね、他の群の人しか周りにいなくて、久野君にしか声かけられなかったんだ」
丸っきりの嘘だけれど、彼は自分の後ろにいた、自分と同じ群選択の人間が誰だったかなんて興味がある訳もなく「そうなんだ」と言ってノートが挟み込まれているゴムバンドを外しにかかった。
「明日までに返して貰えればいいから」
そう言って私にノートを向けるので「あの、そうじゃなくて」と立ち上がろうとする彼を焦って止めた。
「あの、今日ちゃんと返すから、今から時間ある?」
彼がこの後、講義が無い事を私は知っていて声を掛けた。いつも食堂で見かける人たちと何か約束をしていない限り、私に付き合ってくれるだろうと思っての計画だった。
「時間、は、あるけど何で?」
また少し警戒をしているような顔をする。どうしてそんなに警戒されるのか、私には分からなかったけれど、まぁこれから私の事をもっと知ってもらえば良い。何せ、同じ群選択、しかもペア。これからは毎日のように顔を突き合わせていく事になるのだから。
「お礼にお茶ごちそうさせて。カフェテリアでノート、書き写しちゃうからさ。そんなに量は多くないんだ」
彼は何か言おうとしていたけれど、私はノートを持つと何も言わせないようにすぐ背中を向け、段を降りた。暫くして振り向くと、少し呆けたような顔をしていた久野君が、何かに観念したように、小さくため息を吐いて、怠そうに階段を降り、それから私の後ろをついて来た。
理学部の専門科目の授業が増え始めた頃だった。講義中にシャーペンを忘れた事に気づいた私は、隣に座っていた男性に「鉛筆かシャーペン持ってます?」と小声で訊いた。その人は首を振り「あ、そうですか」と反対側の人に訊こうとすると、目の前に座っていた男性が、にょきっと長い腕を伸ばしてきた。その先にはシャーペンが握られていた。
「ありがとう」と小声でお礼を言ってその講義を受けた。書く事が多い講義だったからものすごく助かった。講義後に「これ、ありがとう」と後ろから声を掛けた時に振り向いた久野智樹に、私は完全に一目惚れをした。これまで二十年間生きてきて初めての一目惚れだった。
「あの、名前訊いてもいい?」
私はシャーペンを彼の手の届かないギリギリのところで止めて訊いた。
「久野です。久野智樹」
ノートの隅に「ひさのともき」と殴り書きして「久野君、ありがとう」と言った。彼はこちらをろくに見ようとしなかったので、その後構内で会っても私に気づいてくれなかった。
食堂で声を掛けようと思ったが、どうやらいつも決まったメンバーで食事をしているようで、声を掛け損ねた。結局、講義で隣の席に座って「先日は」と話しかけ、顔を覚えてもらったのだ。なかなか長い道のりだった。
「ノートぐらいで別にいいよ、それにすぐ終わるんでしょ」
そう言って彼は、カフェテリアのメニューではなく、自販機の紙パック入りのオレンジジュースを自分で買ってしまった。結局、私は彼にご馳走する事無く、自分のカフェオレだけをカフェで買って席についた。
わざと空白にしておいた部分と、久野君のノートを見比べて「あぁここだ、ここ」と大げさにその穴が埋められる事を喜びつつ、書き写した。書き写しながらちらりと彼の顔を見た。その顔は全く無機的で、私なんて目の前に存在しないような目をしている。「女の子」として気にしてくれてはいないようだ、とかなり落胆をする。
ゆっくり書き写しながら「久野君って何かサークルやってるの?」と訊ねると、彼は無機的な顔を崩さずに「やってるよ」と一言だけ返す。
「何のサークル?」
私は手を止めて彼を見ると、無機的にどこかへ飛んで行っていた視線がこちらへ戻ってきて「まぁ何の変哲もないサークル。呑んだり食べたり出かけたりっていう感じの」と言い、ジュースを飲んだ。私もカフェオレに手を付ける。
「そのサークルって、私なんかでも入れるの? 高等部限定とかではない?」
その質問に、久野君は少し動きが固まったようだった。数秒、いや、一瞬、固まって「ちょっと今は不思議なメンバー編成になっててさ。嫌な人は嫌だろうなって思うんだ、うん」
少し困ったような顔で笑う久野君に私は「どういう事?」と更に突っ込んだ。同じサークルに入って同じ時間を共有してあわよくば恋人に......と思っているからに決まっている。
「まぁあれだ、五人いたうちの一人が大学辞めて、残りの四人の男女はそれぞれ付き合ってんだ」
その言葉に私はカフェオレを飲む手が止まった。付き合ってる。という事は久野君には恋人がいる。これだけ男前な久野君だ、恋人がいたって不思議ではない。その事に考えが及ばなかった自分がバカだった。
「じゃぁ、あのお昼ご飯を一緒に食べてる、髪の長い美人さんが彼女?」
自然と目の辺りが引き攣ってしまうのは抑えきれないから、前髪を直すフリをしてそれを隠し、彼の顔を見た。すると彼は顔を横に振った。「もう一人の方」
「え、眼鏡の子?地味な子?」
我ながらとても失礼な物言いだとは思ったが、そう言わずにいられなかった。久野君も笑いながら「随分失礼な言い方すんだね、星野さん」と言ってまたジュースのストローに口を付ける。
「ごめん、ちょっと意外だったから。そうか、それならサークルには入りにくいな。ごめんね、変な事訊いて」
いや別に、そう言って彼はまた、どこか遠くへ視線を遣ってしまった。髪の長い美人な方なら叶わないかも知れないけれど、私だって高校の頃は結構モテたのだ。あの地味な眼鏡の子になら負けない自信がある。
「あのさ、これから同じグループでお世話になるからさ、メールアドレスとか、教えてもらってもいい?こうして話せる人もまだ、久野君しかいないんだ」
これは本当だった。シャーペンを忘れてしまったあの件があったからこそ、こうして話し掛ける事が出来るのだ。
「別に、いいけど」
そう言うと彼は携帯の番号とアドレスを携帯に表示させ、見せてくれた。
「ありがと。何かあったらメールしてもいい?」
自分で言いながらおかしな事を言っているのに気づいていたが、きっと「あぁ、いいよ」ぐらいで適当にかわしてくれると思った。
「何も無かったらメール、しないでね」