朝日に落ちる箒星
6.矢部君枝
見慣れない天井が目に映った。あれ、どこだっけ。どこからか、水音がする。
ガバっと起き上がり、ここが智樹の家である事に気づく。あぁ、また寝ちゃったんだ......。
水音は洗面所の方から聞こえる。きっと智樹がシャワーでも浴びているのだろう。
私は腕時計を見た。またこのパターンか。終電、終わってるし。はぁ。その時計を外し、近くに置いてある鞄に入れた。金属同士が触れ合うような音が耳に入る。
ガシャンと音がし、タオルでがさがさと何かを擦るような音がした後、智樹が部屋着に着替えてシャワーから出てきた。
「あれ、起きちゃったの?」
「ごめんなさい」
私は彼の目を見る事ができずに、本当に申し訳なく思って頭を垂れていた。折角の誕生会なのに、途中で酔って寝ちゃうだなんて。
「泊まっていくでしょ?」
彼は気にしている様子も無く、押入れの中に手を突っ込むと「はい」とTシャツとハーフパンツを手渡してくれた。
「ちょっとサイズは大きいけど、ヒモとかで適当にサイズ合わせて。タオルは洗濯機の上に置いてあるから」
さぁさぁ、と言って私は背中を押され、洗面所に入りカギを閉めた。
「ぶかぶかだよ、これ」
Tシャツの首はかなり広いし、肩は落ちてしまっている。ハーフパンツは紐を閉めすぎて、プリーツスカートみたいになっている。智樹はそれを見て大笑いした。
「君枝って思ってる以上にちびっこいんだね」
私は不体裁でこめかみのあたりをぽりぽりと掻き、枕にしていた座布団を広げて座った。
「あのさ、こんな部屋着同士でアレなんだけど、俺ね、君枝にプレゼント買ってあるんだ」
「へ? プレゼント無しって言ったのに?」
ケーキの苺が誕生日プレゼントなのだと本当に思い込んでいた。
彼はクリスマスの時と同じ、本棚の一角から小さな箱を手に私の隣に座った。私は彼と膝を付き合わせるようにして座りなおした。
「趣味に合うか分からないけど、開けてみて」
綺麗な空色の包装紙をゆっくりと解いて、小さな箱の中を見ると、白いスポンジのような台に差し込まれた、一対のピアスがあった。
涙型のクリスタルは、空色に光を反射している。
「塁と違って美的センスがないからさ、似合うかなぁ」
私は何も言えないまま、その小さなピアスを手にとると、髪を耳に掛け、さっき洗面所でピアスを外した穴に差し込んだ。
「どう?」
おっかなびっくりな顔で智樹に訊くと、彼は顔を綻ばせて「似合う似合う、いいじゃん」と言うので、私は泣きそうになるのを堪えて「ありがとう」と笑い返した。
智樹には分からないかも知れない。大好きな人に、プレゼントとしてアクセサリーを貰うという事。女にとって特別な事だ。彼は、この嬉しさを、どうしたら分かってくれるだろうか。
ピアスを箱にしまい、包装紙も綺麗に四角くたたむと全て鞄に入れた。そして彼の元に戻り、私は彼の少し大きな上半身に腕を伸ばし、そのまま寄り掛かるように抱き付いた。
「なに、どーしちゃったの?!」
智樹は素っ頓狂な声をあげている。
「嬉しいの、凄く嬉しいの。それを分かってほしいの」
彼の頭の後ろで私はそう呟く。
「大事にするから。一生忘れないから。二十歳の誕生日」
言っている傍から涙が浮かんでしまい、私の声は震えたけれど、その涙はいつかの為にとっておこうと、何とか辛抱した。
「キス、していい?」
智樹が遠慮がちに言うので、私は彼から身体を離し、自分から彼の唇に自らの唇を押し当てにいった。
ふと目をやった彼のスエットの下半身に、突起物が顔を出していたが、今の私にはそこまで彼の期待に応えられる力はない。申し訳なく思った。と同時に、自分の行動で彼が「そういう気分」になってくれた事は嬉しい事で。
いつかみたいに、押入れから二組の布団を出し、和室に敷いた。
「君枝はこっちで俺はこっち」
智樹が指差す布団の上に座った。
「明日は俺の目覚ましで起きよう。一限に間に合うようにセットしてあるから」
私はありがとうと言って、布団に入った。
「じゃ、電気消すね。おやすみ」
リモコンで電気が消され、私も「おやすみ」と小さな声で言った。いつもはメールでやりとりする「おやすみ」が、隣から聞こえるのは何だかこそばゆい。
街灯の光で薄っすら、智樹のシルエットが暗闇に映る。彼はなかなか布団に入らない。
「どうしたの?」
私は彼の横顔に声を掛けた。彼は暫く何も言わなかった。
「あのさ」
ぼつり、という表現がぴったりなぐらい、零れるみたいに少しずつ話し始めた。
「俺に、ひとつ、プレゼント、くれない?」
私が応えてあげられる範囲ならと思い「参考までに、何?」と訊ねた。
彼はなかなか言おうとせず、まさか身体だなんて言わないよなぁと警戒し、私も半身を起こした。
「キス、ちゃんとしたキス、したいんだけど」
安堵の溜息が出た。もっと手前だったんだ。だけど彼はなかなか口に出来ない言葉だったんだ。
「二十歳の誕生日のプレゼントにしては、ちょっと安っぽいけど、それでもいい?」
そう言うと彼の影がこちらへ動いてきて、私は布団に押し倒された。押し倒すという言葉が似つかわしくない位に、とても優しく。
顔の両側に彼の大きな手の平が置かれると、ふんわりと私ではない人の匂いがした。
そのまま彼の顔が近づき、唇同士が触れる。
唇を舌で舐められ、私は感じた事も無い感覚を覚え、身体に震えが走った。
「大丈夫?」
顔を上げて智樹が訊いたけれど、私は智樹の顔を両手で挟み、私の顔へ仕向けた。
拒絶の震えではない、快感の震えだったから。
そのまま唇を舌で割られ、舌と舌が絡み合った。私はどうしたらいいのか分からなくて、智樹がするように、同じように舌を動かし、そう言えば歯磨きしてない事に気づいて申し訳ない気分になり、それでもキスを続ける智樹が愛おしくて、彼の手のひらに自分の手を重ねた。暖かな手から、熱が送り込まれる。
「ありがとう」
そう言って彼は私から顔を離し、自分の布団へ戻って行った。
自分がそこまで受け入れられた事に驚いた。けれど、よくよく考えてみれば、あの男にキスをされた事はないのだ。ただただ、身体だけを弄ばれていたのだった。私の、きちんとしたファーストキスは、智樹の物だ。