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空のくじら

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片江  さっきの騒ぎのせいか、ちょっと形が崩れてしまったようだな。
おまさ え? あ、そ、そうそうっ! もう、困っちゃうよっ!
片江  ……どうした? 様子がおかしいが。
おまさ 何言ってんだい旦那ってば。あたしはいつもこんなもんさ!
片江  そうか? ならいいが。
おまさ あ、旦那、ここんとこほつれてるよ。
片江  これは気付かなかった。
おまさ 随分長いこと着こんでるもんね。
片江  しかしそろそろ新しいのを誂(あつら)えるか。
おまさ あたしが縫ってあげようか。
片江  いやしかし、それは。
おまさ うちだって商売だからね、タダってわけにはいかないけど……そうだね、特別に反物(たんもの)代だ
    けでいいよ。
片江  ならば反物だけいただこう。縫うのなら何とかするから。
おまさ でも今お母上だって大変でしょう?
片江  それは……それに、これもまた繕い直せば着られぬこともない。
おまさ 何言ってんだい、旦那みたいな嫁さんもいないお侍さんにチクチクチクチクやられてたん
    じゃうちは商売あがったり、おまんまの食い上げってもんさ。いいからこういうのはあた
    しに任せなよ。
片江  いやしかし……。
おまさ なんだい、やけに渋るね。
片江  いや、その……女が男の着物を縫うというのは、その、特別な……。
おまさ ……! や、やだよう旦那ったら。もう。
片江  いや、ははは、すまん。
おまさ ……旦那に、ちゃあんといいお嫁さんが来てくれるまでは、あたしが面倒みてあげるって
    だけです。
片江  おまさ。
おまさ ね! そんな気にしなくていいじゃないの。
片江  ……では、おまさがちゃんといい旦那に嫁ぐまでは、甘えるとしよう。
おまさ ……そうだね。
片江  ……。
おまさ ……でも旦那、あたしなんか嫁にもらってくれる御仁なんていやしないよ。
    こんなじゃじゃ馬、飼いならすのに一苦労さ。
片江  そんなことないと思うぞ。
おまさ もうひとりでいるのも慣れちゃってさ。どこだって一人で入っちゃうんだよ。それでね、
    お団子屋なんかに腰かけるとさ、女中に聞かれるんだよ、おひとり様ですか? って。一
    人だよ見りゃわかるだろ、ここにもう一人見えてんのかいって聞きたくなっちゃうよ。
    でも気楽でいいもんだね、おひとりさまってのも。もうファミレスもラーメン屋も焼き肉
    もカラオケも一人で入っちゃう。
片江  ふぁみれす……? から……?
おまさ とにかく旦那。あたしの未来の旦那のことなんて考えなくてもいいから、遠慮しないでな
    んでも言って。
片江  すまないな。
おまさ いいの、好きでやってんだから。
片江  そうか。
おまさ いや、好きって、そういう意味じゃないけど。
片江  ははは。ありがとう。
おまさ できたらまた届けるよ。
片江  よろしく頼むな。じゃあ、俺はこれで。
おまさ うん。気をつけてね。

おまさ ……(げっそりと疲れてひとしきり落ち込む)むなしいなぁ。所詮町人の娘のあたしと、
    次男坊でもちゃんとしたお武家さんの旦那と。身分違いもいいとこだよ。旦那にはきっと
    そのうちお武家さんのお姫様が嫁いできて、あたしだってどっかのお店の息子に嫁がなき
    ゃいけなくなるんだ。それが世の道理ってもんさ。夢なんか見ちゃいけない。旦那のお嫁
    さんにしてほしいだなんて、口が裂けたって言えないよ。
宮古  ふぅん……。
おまさ きゃ――――っ?!
宮古  ……頭痛がするほどの大声って久しぶりに聞いたわね……。
おまさ 聞いてたっ?! ねぇ聞いてた?!
宮古  何を!
おまさ 何って、お嫁さんとか、その、
宮古  好きってそういう意味じゃないけど。
おまさ そこから?!
宮古  そこから。
おまさ 嘘ー!
宮古  嘘ー。
おまさ えっ!
宮古  もうちょい前から。
おまさ あああああああああもう嫌、穴掘って入りたいむしろ埋まりたい発掘しないでほしい。
宮古  あなたなかなか愉快な人ね。
博士  宮古君まだかね。
宮古  もー博士のくせにうるさいわねこの博士!
博士  博士を悪口みたいに言うな!
おまさ 何か御用でも?
宮古  この辺で薬屋ってない?
おまさ 薬?
宮古  腰が痛くて痛くてかなわないんだってさー。
博士  くそう、あの軟膏さえあればこんな痛みすぐに……痛たた。
おまさ 薬屋って言ったって、あんたたち金は持ってんのかい?
宮古  あ……。
おまさ それじゃあ薬は買えないよ。困ったね……。
宮古  やっぱり博士が自分で作るしかありませんって。
おまさ 作れるの?
博士  無茶言うな、こんなところで何もなく……
宮古  あーら、さすがの博士もそりゃ無理か。
博士  なにを?! この私に作れぬものなどないわ!
宮古  じゃー作ったら良いじゃないですか。
博士  見ておれよ!(さっさと歩いて行く)
おまさ 腰が痛かったんじゃ……。
宮古  あれはあーゆー生き物なのよ。
おまさ でも薬を作るなんて……未来の人はみんな自分で薬をつくるのかい?
宮古  まさか。博士は、発明家でもあるけどすっごく優秀な薬品研究者でもあったのよ。
おまさ はぁ、人は見掛けによらないもんだね。
宮古  でしょー?! あの見た目で優秀なんて詐欺よね。
おまさ あはは、面白い! あんたあの人の部下だろう?
宮古  そりゃそうだけど……あの人あんなんだから、誰かが面倒みないとね。
おまさ 惚れてんのかい?
宮古  そーゆーこと言うのは幼い証拠。
博士 (裏から)宮古君! 何をしているのかね!
宮古  はいはい今行きまーす。じゃ!
おまさ ……未来、かぁ。

暗転
        暗転中から

宮古  え? 空のクジラ?
深雪  そう。空のクジラ。まだ夜が明けきる前の薄暗い空に、一つだけ雲が泳いでいたの。ちょ
    うど空の色が深海の色に見えて、クジラみたいだった。

明転

宮古  それが博士?
深雪  だってそっくりだって思ったのよ。
宮古  深雪さんってさー……。
深雪  なあに?
宮古  なんでもなーい。
深雪  写真だって撮ったのよ、ほら。
宮古  綺麗だね。
深雪  でしょ? ほら、これも、これも。
宮古  でもさぁこれさぁ、博士の写真多すぎない?
深雪  そうかしら?
宮古  深雪さんってどーしてそうあの博士が大好きなの?
深雪  だって夫婦だもの。
宮古  はいはい。万年新婚さんだもんね。
深雪  宮古ちゃんもいつかきっと見つかるわよ、素敵なひと。
宮古  ……それって博士が素敵ってのろけてる?
深雪  ええ。
宮古  ……はー。まぁいっか。

博士がやってくる

博士  やけに楽しそうだな。何の話をしているんだ?
深雪  あなたには秘密。
博士  なんだそれは。宮古君、来ていたのかね。
宮古  だって研究室に行っても誰もかまってくれないから暇なんだもーん。
博士  研究室は遊び場じゃないと何度言ったら分かるんだ。
深雪  あら、将来有望な学生だって嬉しそうにしてたくせに。
博士  深雪!
宮古  えっ、博士本当?
深雪  本当よ。
作品名:空のくじら 作家名:barisa