泣き虫
親父は少し笑ってくれた。
そこで俺は、張り切ってもっと沢山の玉を拾い集めてきたが、親父はあまり嬉しそうでは無かった。
俺は、何となく寂しくなったのを覚えている。
俺もそんな事をしない方が、良かった様な気がしたのだった。
父親は玉を打つ前に、何台ものパチンコ台を眺めては「ぶつぶつ」言ってまわったりしていた。
そんな親父はいつも勝っていたような気がする。
パチンコに行った時は、必ずと言って良いほど少しばかりのおみやげが有った。
きっと、少しでも何かを俺達に持って帰ろうと本気で思っていたのだろう。
もっとも、パチンコをする金で、何か買ってやれ!と言われれば、それまでであるが・・・
時々、往来でよそのおやじ同士が「きょう、これ行くか?」と
両手を小さくクロスさせて肩をしぼめ指をはじくる動作をする。
今で言うと、ボールを握るようにして手首をまわすのと同じだ。
子供心にも、「両手を小さくクロスさせて肩をしぼめる」格好がすごく可笑しかった。
そして、一様に玉が出ないと「おかしいなぁ〜」とか「へんだなぁ・・・」とかみんな言うのだった。
その当時は、「本当に変なのだなぁ〜」と思っていたが、大人になって考えてみれば、極々当たり前な事である。
変でも、おかしくもないのだ。
相手は商売なのだから、玉が出ない様に工夫をしているのだから、出ないのが当たり前なのだ。
人は、時々都合が悪いと「あれっ?おかしいな・・・」を良く使うと思う。
うちのかみさんは、料理がすごく上手だ。
ある日の事である。
じつに美味しそうな「カツ丼」を作った。
まさに、河童橋のサンプルのそれと同じである。
しかし、姿とは裏腹に、味は散々であった!「なんだ、こりゃあ〜×××!!」と大変塩辛かった。
自分で味見をした、かみさんは「あれっ?おかしいな・・・」と言ったのだった。
それは、ちっともおかしくないのだ。
それは、あなたが言っている事が、「あれっ?おかしいな・・・」である。
なぜならば、原因は、単純に砂糖と塩を間違えただけだからだ。
それなのに、「おかしいなぁ・・・」と言うのだ。
砂糖が醤油やら味醂やらと混ざる時に塩に変わったのならば、それは確かに「おかしいなぁ・・・」だが、
はなっから間違えて塩を入れてしまった場合には「おかしいなぁ・・・」は「おかしいなぁ・・・」だ。
いつも、話が外れてゆく。
さて、そんな並びにの中の電気屋さんでの話である。
一度、お袋に連れられてこの電気屋さんに出かけた事がある。
当時は、真空管のラジオが主流だった時に、お袋はトランジスターラジオを月賦で買った。
子供心にも「おおっすごい事をするな!」と思ったものだった。
ワクワクしながらの帰り道。
真っ直ぐにぼろ屋に帰る事は無く、みんなで「カブトムシ」を捕りに行く方向へ向かった。
お袋が、向かった先は質屋だった。
お袋は、今しがた買ったばかりのトランジスターラジオを質草に入れたのだった。
以前にも何度か連れられてきた事があったので、大体の意味は分っていた。
しかし、一度も音を聞くことも無いばかりか、手に触れる事すらできずに手放す事になるのは悲しかった。
質草が、戻った事は一度も無かったからだ。
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帰り道で、お袋と手をつないで歩く歩道は、ただの白っぽいコンクリの板が波打っているだけだった。
何も話さないで歩く俺に、「お父さんには、話してはいけないよ」と、お袋が言った。
思い出に、暑さ寒さが記憶に無いのだが、この日は、ひどく寒かった事を思い出す。
それぐらいの事は、分かる年齢であった俺は黙って歩いた。
ただ、俺はその新しいラジオを聴きたかっただけだった。
帰る途中で、お袋は少しばかりのお菓子を買ってくれた。
ちょっと、ふて腐れて下を向いて歩く俺の機嫌を取ろうとしたのだった。
財布から出したお札は、たった今、質屋から借りてきたお金だったに違いない。
そのお菓子を食べた。ふて腐れて居る表情を見られたくなかったから、下を向いたまま食べた。
「ぎゅ」っと、握って食べた。何か柔らかくて茶色い物であったのを覚えている。
その時のお袋の顔は、全く記憶に無いのだが、きっと少し笑っていたと思う。
お袋とは、そう言うものなのだ。
それと、俺は本当にその新しいラジオを聴きたかった。それだけの事だった。
時々、「ぎゅっ」と握ってくれるお袋の手は、とても暖かくて嬉しくて少し悲しかった。
本当は、少しもふて腐れていなかったと思う。少しでも甘えて居たかったのだ。
俺は、男三人兄弟の末っ子である。長男と俺は十歳違い、次男とは二歳違いである。
俺から見た長男は、とても怖い存在だった。
それは、ある所で親父の様な存在で有ったのかもしれない。
この頃の、長男の思い出はひどく悲しい姿だ。目に浮かんで来るのは、薄汚れたシャツの兄の後姿ばかりだ。
楽しい思い出であるはずの、屋台のラーメンを啜る時でさえ、そんな姿なのだ。
そんな姿の長男が、しゃがんでラーメンを口に運んでくれた思い出がある。
長男の年齢は、中学校の3年生ぐらいだろうか・・・
それはそれは、限界に近いほどに小さな時の記憶だ。
まだ小さな俺には、とてもラーメン丼を持つ事は出来ないだろう。
いろいろと、面倒を見てくれていたそうだ。
「本当は、ねーちゃんが居たんだよ」と、小学生に成ってからお袋によく言われた。
長男の後に、女の子が生まれたそうだ。親父はひどく喜んだと言っていた。
生まれてすぐに、ねーちゃんは死んだ。その詳しい事は、聞いた記憶が無い。
「ねーちゃんが居たら、お前は居なかったろうね・・・」と、よく言われたが、俺には意味が分からなかった。
ただ、そんな事を話すお袋の姿が寂しそうで、俺は、子供ながらにもねーちゃんと変わっても良いと思った事を覚えている。
別に、悲しい話でもなくて、ショックな事でもなかった。
俺も、単純にねーちゃんが居たら嬉しいなと思っていた。
そして、実際に本当にねーちゃんが居たという事が、俺には凄く重要な事であった。
お袋は、心臓が悪くて俺を生んだ後は、暫く病院生活だったそうだ。
確かに、微かに看護婦さんに折り紙で遊んでもらった記憶がある。
ひどい貧乏な生活は、こんな事も原因だったのだろう。
それに、親父の記憶が薄い理由は、働き尽くめで殆ど顔を合わせる時間が無かったのだ。
長男は、お袋が入院中の薄汚れた小さな弟二人を不憫に思ったのか、よく面倒を見てくれていたそうだ。
親父が死んで、お袋の面倒を見る事になった。
長男は、「出来ることはするが、お前らが見てくれよ。俺は、散々な目にあっているからな」と言った。
嫌味な言い方ではなく、なぜか素直に受け入れられた。
次男と俺とで10年ばかり、交代で一緒に暮らした。俺にしてみれば、少しでもお袋と過ごしたかったのだ。
末っ子は、ただでも一緒に居る時間が短いのだから当然である。
お袋が死に、葬儀の日。長男が嗚咽した。
全くの事に、親類友人も驚いていた。なぜならば、長男は酷くぐれていて手に負えないと言うイメージだったからだ。
実際に、酒を飲んでは暴れたり、喧嘩をしたりで警察沙汰に成る事がよく有ったからだ。