泣き虫
詳しくは覚えていないが、確か「とんがらし」が、植えてあった事は覚えている。
俺は、良く晴れた日、その「とんがらし」が、植えてあった畑で立小便をした事がある。
男なら分るだろうが、筒先の方向は自由自在である。
そこで俺は、筒先を赤色の「とんがらし」(であったと思う)に、こすり付けるようにしておしっこをした記憶がある。
きらきらと注ぐ日差しと赤色に輝く「とんがらし」が綺麗だった。
しかし、その後は言うまでも無く大惨事だった。
なんか、変だな・・・話が。
このぼろ屋は、少しばかりの土手の上にやっと建っていた。
ぼろ屋と、とんがらし畑の間には人が通れるほどの道がついている。
畑に向かって左に行くと、「夢日記」で書いた広場と神社がある。
家に寄り添うように、すごく小さなお稲荷さんもあった。
夜寝ていると、小さな曇りガラスの窓の外に、お稲荷さんの影が月の光に映し出される事があった。
祖母から、「夜中にお供えの油揚げを撮りに来る事があるよ」
と 聞かされて居たせいか、狐が油揚げを咥えて行く影を今でもハッキリと覚えているのだ。
もっとも、この狐はどう言う訳か、人の様に二足歩行である。
考えてみても、二足歩行の狐が当時のこの町に生息して居るとは、到底思えない。
しかし、誰がなんと言おうが小さな俺は、見たのだった。
さて、ぼろ屋を出て右に土手を少し下ると道路に出るのだが、この道路が割りと交通量が多かった。
普通の車がすれ違う事が出来ほどの幅であるが、国道16号線から国道1号線へ抜けられる道路なので、交通量が多いのは当然の事であった。
もっとも50年ほど前の話なので、現在の交通量とは比べ物に成らないほど少なめである。
一度、この土手を三輪車で走り降りる遊びをしていた事があった。
今思うと、なかなか当時ならではのスリルに満ちた遊びである。
おおかたの予想通り、何度目かにタクシーと接触して道路の反対側のドブに三輪車ごと転がり落ちた事がある。
わりと深めのドブでも当時は蓋など無かった。
あと数メートル左に転がれば、「向かいの脱腸の金さん」家の庭でドブにはまる事は避けられたのだが、そう上手い具合に行かないのだ。
降りてきた、タクシーの運転手にひどく叱られたのをドブの中から上に成っている三輪車越しに覚えている。
幸い怪我も無くドブから拾い上げられたが、一日中ドブ臭かった。
この事故を期に10歳違いの長男には、「お前は、ドブから拾われたんだぞ」と散々からかわれたのだった。
しかし、実際このドブには、男兄弟三人もろとも自転車で落ちた事もある。
それ以外にも友だちや近所のおやじが酔っ払ってよく落ちていた。
じつに、油断もすきも無いドブだった。
このドブは、深さが6-70Cm程もあり、幅も同じように広かった。
今のように、蓋をして転落を防止していなかったのだ。
当時は、大通りから一本路地に入ると、殆どのドブには蓋などは無かった。
道路を国道16号線とは反対に少し上って行くと左側に曲がっている。
ここの場所に、「夜鳴き蕎麦」が毎晩来るのだった。
「夜鳴き蕎麦」と言うが、屋台のラーメンだ。
このラーメンは、数回だが母に兄弟3人連れられて、数回食べた記憶がある。
殆どが、母と一緒で父親に連れて来られた事は無いと思う。
貧乏生活まっしぐらで、男ばかり3人では、両親は大変だったと思う。
とにかく、四六時中腹をすかしていたので、よその人の残したラーメンを屋台の親父が、
このドブに捨ててしまうのが、小さいながらにも惜しかった。
あっ!! と言う事は、このドブは酷く汚かったのである!
この道路を30メートルほど下ると国道16号線にあたる。
信号機があり、その手前の左側に「やきそば屋の青木さん」の家があった。
国道16号線を渡った突き当たりには、市場が奥に向かってあった。
この市場には、どんな店が入っていたのか、全く記憶が無い。
ただ、入口には「お稲荷さん」があった事は鮮明に覚えているし、現在でもこの「お稲荷さん」は健在である。
今思うと、お稲荷さんってあっちこっちに沢山あった様な気がする。
当時の国道16号線は、よく米軍の軍用車両が走っていた。
深夜に轟音と地響きを立てて、何台も連なって走って行く所をお袋の知り合いと見た事がある。
この知り合いは、16号線の脇にある不動産業を営んでいて、お金持ちであった。
当時に、「トヨペット」と「デソート」のセダンを乗っていた。
俺よりも少し年下の息子が2人居て、小学校に入ってからもお互いに家を行き来したのだった。
一度、ここの奥様の運転の「デソート」で現在の東名高速の横浜町田インターの辺りの田んぼで、タニシやカエルを取った思い出がある。
さて、この道路の歩道は広いが現在の様なアスファルトではなく、30cmx30cmほどの「コンクリート製の板」を敷き詰めていた。
所々に凹凸が出来ていて、雨の夜などは子供の低い視線から見ると波立っている様に見えた。
まわりのネオンや看板灯や車のライトが、雨で濡れたコンクリに反射するとすごく綺麗で少し嬉しかった。
市場の並びに例の銭湯がある。銭湯の前には、バス停があった。
その先には、「林電気」が有り、そして知り合いの不動産屋と並んでいた。
当時のバスはボンネットタイプのバスで車掌さんが乗っていた。
ガソリンバスの他に、トロリーバス(電気バス)も走っていたが、トロリーバスは確かワンマンだった気がする。
トロリーバスは急ハンドルを切ると、道路上に張った電線からフックが外れてしまい、止まってしまうのだった。
そうすると、バスの運転手さんが降りて、備え付けの木製の長い棒で外れたフックを架線にかけるのだ。
俺は、どういう訳かトロリーバスに乗ると酔ってしまうのだった。
それも、市電と共にいつの間にか姿を消してしまった。
バス停の隣には、電話ボックスが立っていた。
例の頭が赤くてベージュ色の電話ボックスである。
俺達は、銭湯に行く時に必ず用も無いのに、一度は中に入り電話をかける振りをしたり、
ドアの丸く開いた穴から手を出したり入れたりひと遊びしてから銭湯に入るのだった。
もちろん、帰りも同じ事である。
普段でも電話ボックスの前を通る度に、ついついふざけて中に入ってしまうのだった。
何時だったか、ドアを開けたら酔っ払いが電話ボックスの中から転がり出てきた事もあった。
銭湯の並びには、詳しい場所は覚えていないが、パチンコ屋もあった。
親父と何度か入った事があったが、当時のパチンコ屋は椅子に座って打つことは無く立ったままで打った。
右側にバネ式のレバーが有り、その上に玉を入れる小さな穴が開いている。
今の様な電動式とは違って上手に打つにはある程度の慣れが必要だったようだ。
右手でレバーを弾きながら、左手は握ったパチンコ玉をレバーの上の穴に入れるのだが、
一つ玉を入れて打ち、次にまた一つ入れて打ちの動作を連続的にこなさなければならないのだった。
そんな、一連の動きにすごく興味を持って見ていた。
しばらくして、飽きてしまい足元を見るとずい分とパチンコ玉が落ちている事に気が付いた。
体が小さな俺は、床の玉を拾っては親父に渡した。