天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ
「おかしくはないわ。現実に代理母出産で生まれている赤ちゃんは年間に何人もいるのよ」
「だから、そのこと自体が間違っていると言ってるんだ! 良いか、紗英子、自然の摂理に逆らうような行為は、神の意思に逆らうことになる。他人の腹に自分たちの卵を入れて育てさせて生ませるなんて、これはもう天への冒涜以外の何ものでもないよ」
妊娠や出産は本来、神の領域なんだ。俺ら人間が勝手にコントロールしちゃいけないんだよ。
直輝が囁くように言った。
紗英子は思わず笑い出した。
「何を寝ぼけたことを言ってるの? 直輝さんはいつからクリスチャンに改宗したの? それとも牧師にでもなったつもり? 本当にね、心から子宝を望む女には、天の意思も神の領域もそんなものは一切、関係ない。それは自分たちの受精卵じゃない―第三者の受精卵を使うっていうのなら、私だって初めからそんなことをしやしないわ。そんなことをするくらいなら、今、あなたが言ったように施設から身寄りのない子を引き取れば良いだけだもの。でも、私たちはまだ我が子を持てるチャンスがあるの。ならば、私はその一縷の可能性に賭けてみたい。あなたの血を引く子どもをこの手に抱いてみたいの。それが、そこまで責められるほどいけないことなのかしら」
「とにかく、俺は反対だからな。お前が何と言おうと、今回だけは駄目だ。協力はしないぞ」
直輝は話にならないというように立ち上がった。
「もう今夜は寝む」
低い声で言い、立ち上がろうとした夫の前に、紗英子は突然回り込んだ。突然、通せんぼされた格好になり、直輝が眉を寄せた。
「どういうつもりだ?」
「お願い、あなた、もう一度だけ、せめて一度でも良いから協力して」
紗英子は涙ながらに懇願した。ここで夫に背を向けられたら、すべてがおしまいだ。何としてでも直輝に承諾させなければ。
「今夜はもう、この話は終わりだ」
直輝の声はゾッとするほど冷たかった。
紗英子は咄嗟にその場に正座し、両手をついた。
「お願いよ、たったの一度で良いから、あなたの精子を私にちょうだい」
「良い加減にしないか! 俺は協力はしないと言っている。何度同じことを言わせれば、気が済む?」
地獄の底を這うような不穏な声を出されても、紗英子は平然と夫の言葉に耳を傾けている。
「何度でも同じ科白を繰り返すわ。あなたが良いと言うまではね」
「お願いだから、直輝さん」
直輝の足許に縋り付くのと、紗英子の身体が後方に飛んだのは同時だった。
「良い加減にしろッ。止せと言ってるのに、まだしつこく繰り返すつもりか?」
決死の覚悟で脚に縋り付いた紗英子を、直輝が振り払ったのだ。直輝本人にはそのつもりはなくても、結果としては紗英子を蹴り上げたのと同じことになった。
小柄な紗英子は後方に飛び、腰をしたたか打った。一瞬、痛みを感じたものの、紗英子は立ち上がり、キッチンへと走った。
キッチンの流しに行くと、包丁立てから、眼に付いた包丁を握りしめリビングに駆け戻る。
「もし、あなたがどうしても協力しないと言い張るのなら、私は今、ここで生命を絶つわよ。元々、子どもができない、いない人生なんて、生きていても仕方がないと思っていたの。いよいよ子宮を取ることになったときも、何度自殺しようかと思ったわ。それがまだ少しでも見込みがあると判ったんだもの、試してみない法はないでしょ。もし、それでも駄目なら、諦めもつくけど、やりもしない中から諦めるなんて考えられない」
紗英子は刃物を両手に握りしめ、喉元に当てた。
「紗英子、お前は自分が何を口走っているか自覚はあるのか?」
直輝の眼は信じられないものでも見るかのようだ。
「単なる脅しだと思う? 思うのなら、それでも良いわ。本気になった女がどれだけの覚悟を持っているか、見てみると良いんだわ」
紗英子は躊躇いもなく切っ先を喉元に当て、軽くすべらせた。つうっーと白い喉を刃先がなぞり、細い血の筋が走る。
「おい、お前」
直輝が口許を戦慄かせた。
「どう? もっと見たい? 赤ちゃんが欲しくて欲しくて、夢にまで見たのに、とうとう神さまに授けて貰えなかった可哀想な女の最後が見たい?」
別に脅しのつもりだけではなかった。この時、紗英子は本当にもうこのまま死んでも良いと思った。一度は諦めようとした。でも、やっぱり、諦めきれない。子どものいない人生なんて―考えられない。たとえどれほど愚かと言われようが、自分は子どもが欲しい、赤ちゃんをこの腕に抱きたい。
だから、もうこれで直輝が協力してくれず、本当に今度こそ子どもを望めないと判ったのなら、ここで今、死ぬのも悪くはないし悔いはない。
少し力を込める。今度は少し深く皮膚を抉ったと見え、血の滴がポタリと落ちた。
「止めろ! 止めるんだ」
直輝が突進してきて、紗英子の腕を掴んだ。サッカーで鍛え抜いた逞しい手で手首を掴まれたら、ひとたまりもない。紗英子は小さく呻いて、刃物を床に落とした。包丁が絨毯の上に落ちて、転がる。
「お前、尋常じゃない。狂ってる」
直輝は小さく首を振りながら呟いた。
そう、確かに私は狂っているのかもしれない。子どものこと以外に、何も見えず考えられなくなっているのかもしれない。
でも、それが何だというのだろう。本当に欲しいものを手に入れるためなら、人はどんなことだって、できる。
直輝が重い溜息を吐いた。
「仕方ない。お前という女にはつくづく愛想が尽き果てたが、仮にも長い月日を共に歩いてきた仲だ。眼の前で死なれたら、俺も後味が悪いからな。だが、俺はあくまでも認めたわけじゃない。俺が協力するのは精子を提供するところまでだ。後は知らない。一度だけ、お前の気の済むようにしろ」
「―ありがとう」
紗英子が言い終わらない中に、リビングのドアは眼前で音を立てて閉まった。
もしかしたら、これで彼の心を永遠に失ってしまったのかもしれなかった。
いや、そんなことはない。今はあの男も頑なになっているけれど、実際に可愛い赤ん坊を見たら、相好を崩すに違いない。サッカー教室を開いて無料で子どもを教えているくらい、子ども好きの人なのだ。
大丈夫、大丈夫と紗英子は己れに言い聞かせる。きっと、すべてがうまくいくはず。
赤ちゃんさえ生まれれば、有喜菜が妊娠さえしてくれれば。
―判ったわ、直輝の子どもを生むわ。
今日の昼下がり、川べりの土手に座り、まるで勝利を高らかに宣言する女神のように言った有喜菜。
今、有喜菜のあの科白がまざまざと耳奥で甦った。
―お前という女にはつくづく愛想が尽き果てたが、仮にも長い月日を共に歩いてきた仲だ。
有喜菜の言葉に呼応するように、直輝の先刻の科白が聞こえてくる。まるで汚いものでも見るかのような視線で、吐き捨てるように言った夫。
好きな男にそこまで悪し様に言われてまで、手に入れるほどの価値が本当にあるのだろうか。また、紗英子の胸に後悔に似た感情が渦巻き、胸がツキリと痛んだ。
いいや、そんなはずはない。
きっと大丈夫、すべてがうまくいく。
紗英子は先刻から何度も言い聞かせた言葉を呪文のように自分に言い聞かせた。
子どもさえ、生まれたら。
私たちの赤ちゃんさえ、生まれたら。
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ 作家名:東 めぐみ