天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ
「ええ、お願いよ、私と直輝さんの赤ちゃんを産んでちょうだい。あなたを信じてすべてを任せるわ。もちろん、私も全面的にあなたに協力するから」
戸惑いを憶えながらも、紗英子は特に何も言わなかった。今ここで、有喜菜に否と言われたら、困るのは紗英子だったからだ。
「来週、一度、S市のクリニックに行くことになってるの。できれば、あなたも都合を合わせて行って欲しいわ。こうと決めたら、早いほうが良いものね。多分、そのときにひととおり健康状態のチェックとかもすると思うの。もちろん、私も卵子の状態を調べるわ」
妊娠できるかどうか、妊娠しても継続することができるか。そういった面に関して細部に渡って調べることになるだろう。
「判った。日にちが決まったら、連絡して。その日に合わせて休みを取るから」
有喜菜の口調は極めて事務的だった。その表情も淡々としていて、彼女が代理出産を引き受けたことを後悔しているのかどうかまでは判らない。
「それじゃあ、風邪なんか引かないように気をつけて」
別れ際、紗英子は有喜菜に微笑みかけた。もちろん、その言葉は有喜菜本人のために言ったわけではなく、いずれは紗英子と直輝の大切な赤ちゃんをその身に宿すことになる女に対して言ったのだ。
紗英子の気持ちが伝わったのかどうか、有喜菜は曖昧な笑みを浮かべただけで何も言わずに去っていった。
そのときの有喜菜の表情は長らく紗英子の脳裏から消えることはなかった。何故だろう、期待どおりに有喜菜が代理母となることを引き受けたというのに、紗英子は心が弾まなかった。
―直輝の子どもを生むわ。
きっぱりと宣言した有喜菜の言葉の裏には、何か彼女の強い意思のようなものが隠されているように思えてならなかった。もしかしたら、有喜菜はこう言いたかったのではないか。
―あなたの子どもではなく、直輝の子どもを生むわ。
と。
もちろん、それは紗英子の勘ぐりであり、取り越し苦労にすぎないだろう。しかし、去ってゆく有喜菜の後ろ姿をその場で茫然と見送りながら、紗英子は自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと思い始めていた。
そして、慌てそんな想いを打ち消す。
馬鹿な、ここまで来て、迷いは禁物だ。自分は正しいことをしているはずではないか。
もし有喜菜が妊娠に成功すれば、紗英子は長年の夢をやっと果たせる。結婚して以来、十二年間ずっと欲しいと切望していた我が子をこの腕に抱けるのだ。
大丈夫。ほんの少し気弱になっているだけだ。紗英子は自分に言い聞かせながら、もう一度空を振り仰ぐ。いつのまにできたのか、水色の透明な空に、ひとすじの飛行機雲が浮かんでいた。
紗英子はゆっくりと草の斜面を登った。土手の上のこの道は、中学時代は紗英子と有喜菜の通学路であった。毎日、朝と夕方、二人でこの道を歩いたものだ。紗英子は自転車を押して歩き、有喜菜はその傍らを飛び跳ねるように歩きながら、学校までの道程を辿った。
よくこれだけ喋ることがあるものだと我ながら呆れるくらい、色んなことを喋った。家族のこと、勉強のこと、応援しているアイドルのこと。でも、今から思えば、共通の友人であり、紗英子の彼氏でもある直輝については、まるで暗黙の了解でもあるかのように、二人ともに話題にはしなかった。
あれも今から考えれば不自然なことだったかもしれない。もしかしたら、有喜菜は直輝を好きだったのだろうか。思えば、そんな節はなきにもしあらずだった。
―だからこそ、二年になって有喜菜と直輝が別々のクラスになり、今度は自分が彼と一緒のクラスになるやいなや、紗英子は直輝に急接近し、自分から告白したのである。まるで有喜菜が彼の側からいなくなるのを待っていたように、直輝に近づいたのだ。
もっとも、その時、まだ有喜菜と直輝は付き合っていたわけでもないし、傍目には、ただの喧嘩友達―むしろ男同士の友情に近いものを築いているように見えた。だが、それはあくまでも、見た目にすぎず、同人同士の間に何があり、どのような心の交流があったのか、もしくは秘められていたのかまでは判らない。
有喜菜にしてみれば、クラス替えをした途端、親友である紗英子が直輝を奪うように彼氏にしてしまった―と思ったとしても不思議ではない。
まあ、いずれにせよ、代理出産を頼む女が有喜菜であることは夫には伏せておいた方が良い。有喜菜の挙動にいささか疑わしいところがあると判った今では、余計に黙っていた方が賢明というものだろう。
もっとも、紗英子は元から有喜菜のことを直輝に話すつもりはなかったが。有喜菜にも言ったように、代理母はクリニックで紹介された名も知らぬ女性だと言うつもりだ。子どもが生まれてからの親権の問題を煩雑にしないためにも、個人情報守秘の義務があり、互いの住所や名前は知らされないのだと。
何故、有喜菜を代理母に選んだのかと訊かれれば、紗英子にも、はきとした応えはない。ただ、いちばん身近にいる妊娠できる身体を備えた女性ということで、真っ先に有喜菜の顔を思い浮かべた。いや、というよりは、有喜菜しか考えられなかったのだから、やはり、自分は彼女に信頼を寄せているのだろう。
信頼? いや、信頼というよりは、自分たち夫婦の共通の友人である彼女であるからこそ、やはり待ち望んだ赤ん坊を生むのは有喜菜であるべきだという強い想い―信念のようなものを感じたのかもしれない。
前方から小学生の一団が賑やかに歩いてくる。数人群れているのは一年生らしい。ピカピカの真新しいランドセルが冬のやわらかな陽射しに映えて眩しかった。
小さな身体にはまだ不似合いなほど大きなランドセルを背負い、彼等は歓声を上げながら歩いてゆく。可愛い一年生たちを見送りながら、紗英子は思う。
やはり、自分は間違っていない。もうすぐ、もうすぐ、可愛い子どもをこの手に抱ける。あと少し辛抱すれば、自分もあんな愛らしい子どもの母親になれるだろう。ランドセルだって、買ってあげることができる。
そうだ、生まれてくる赤ん坊が大きくなって小学校に入るときには、最高級のブランドランドセルを買ってあげよう。
紗英子は少し気分が明るくなり、軽くハミングしながら歩き始めた。有喜菜とは逆方向―マンションへ向かって足取りも軽やかに歩き始める。夫直輝と自分の住まいに。
夕食後、直輝は朝と同じようにコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、ゆっくりと飲む。夫はアルコール類は嫌いな方ではなかったが、家ではあまり飲まない。晩酌などは間違ってもしなかった。
紗英子はアルコールは嫌いではなく、むしろ好きな方だ。たくさんは飲めないが、好きなドラマなどを借りてきて、アルコールを飲みながら、ゆっくりと鑑賞するのは大好きだ。しかし、直輝がアルコールを飲まないため、妻の自分だけが側で飲むこともできなくて我慢していた。酒豪というのではないから、長年、夫に付き合って我慢している中に、いつしかアルコールの味も忘れた。
元々、そこまでの執着はないのだ。
朝食のときに食べながらコーヒーを飲む習慣だけはいまだに頂けないが、夕食後にゆっくりと飲むのは別に嫌ではない。夕食後、コーヒーを飲みながら新聞を広げる夫の真剣な表情が紗英子は好きだ。
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ 作家名:東 めぐみ