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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ

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「さあね。こんなオバさんになったら、今時の若い子のことはてんで判らないわ」
 有喜菜が心もち肩をすくめた。
「あの子たちを見てたら、思い出したの」
「思い出すって、何を?」
 紗英子は今日、初めて有喜菜を真正面から見た。相変わらず、白いシャツと黒のタイトスカートが抜群のスタイルを引き立てている。
「私たちが中学生だった頃のこと」
 ああ、と有喜菜が頷いた。
「そうよね。私たちも、いつもあんな風に帰ってたものね」
「私が自転車通学で、有喜菜は歩きだったよね。有喜菜はさっきの子のように、この坂を勢いよくすべるのが好きで、私ははらはらしながら見てた」
「もう、随分と昔になったわね」
 有喜菜がしみじみと言った。恐らく、この瞬間には、二人は同じことを考えているはずだった。同じ制服を着て、同じ道を通い、同じ時代を生きた同士であり、仲間だ。
 紗英子の中で有喜菜に対する親近感が急速に増した。今、有喜菜と自分は間違いなく同じ時間を、想い出を共有している。
「あなたの言うとおりね。あの頃がもう随分と昔のような気がするわ」
 紗英子は呟き、空を見上げた。雲一つない抜けるような蒼い空。薄青い冬の空はいかにも寒々しく寒走って見える。
「あの頃は良かった、戻れるものなら時を巻き戻して、あの時代に帰りたいわ」
 視線を戻し、前方を見ても、既に少女たちの姿はどこにも見当たらなかった。
 同じ時代を共有していた二人は、別々の高校に進学した。直輝と紗英子は公立のN高校へ、小さいけれど貿易会社を営む父親を持つ有喜菜はお嬢さま学校として知られる私立の女子校へと進学し、それぞれの進む道は別れた。
 そう、時は二度と戻せないし、人は過去に帰ることもできない。ただ、ひたすら未来へ、前へ向いて進むしかない。たとえ、その先に何が待ち受けていようとも、後戻りはできないのだ。
「―有喜菜に頼みがあるの」
 紗英子は改めて、知り合って三十五年になろうとする親友の顔を見つめた。
「私の赤ちゃんを産んでくれる?」
「紗英、何を言ってるの、私―」
 流石に有喜菜も言葉を失っている。
「代理出産を考えているのよ。その代理母の役目をあなたに引き受けて欲しいと思ってる」
 既によくよく考えた上での固い決意だったので、ひとたび話し出せば、言葉は自分でも意外なほどにすらすらと出てくる。
 対する有喜菜の方は予期せぬ展開に、衝撃も大きいようである。
「こんなことをお願いできるのは、あなたしかいない。もちろん、本当に身勝手な頼みだとは承知してる。でも、あなたは私たちの共通の友人でもある。あなたにしかこんなことは頼めないの。お願いよ、直輝さんと私の子どもを生んでちょうだい」
「直輝の、子ども」
 有喜菜のきれいにルージュを塗った唇が震えた。
「私が、直輝の子どもを産む?」
 紗英子は動揺する有喜菜とは裏腹にしっかりとした口調で言った。
「そうよ、あなたに私と直輝さんの子どもを生んで欲しいのよ」
 この時、迂闊にも紗英子は気づかなかった。有喜菜の口から出たのは〝紗英子と直輝の子〟ではなく〝直輝の子〟であったことに。
 長い静寂があった。それでも、紗英子は返事を急かそうとは思わなかった。
 誰だって、急にこんなことを言われたら、戸惑うし迷うのは当然だ。しかし、何故か、紗英子はある種の確信を抱いていた。恐らく、有喜菜は自分の頼みを断りはしない。紗英子と直輝の子どもを生むことを最終的には承諾するはずだ。
「もちろん、お礼はちゃんとするわ。友達だから、ただで生んで欲しいとか、安くしてなんてことは言わない。相場として考えられる報酬に少し上乗せして支払う。それで、引き受けて貰えないかしら」
 やはり、有喜菜といえども、謝礼のことは気になるはずだ。彼女の実家は既に往時の勢いはない。有喜菜が学生の頃は手広く商売をやっていた父親が数年前に亡くなり、跡を継いだ弟が事業に失敗した上に莫大な借金を作ったからである。
 子どももいない一人暮らしでは、慎ましく暮らせば出費は最低限に抑えられるだろうけれども、何かあっても実家を頼ることはできない状況なのだ。
 具体的な金額を提示すると、有喜菜の唇がまたかすかに戦慄いた。
「本当にやる気なのね?」
「もちろんよ。悪ふざけでこんなことを言い出したりはしないし、仕事中のあなたを呼び出したりはしないわ」
「二つほど確認しても良いかしら」
「もちろん、何でも訊いて」
「一つ目の質問は、直輝がこのことを承諾しているのかってこと。あの人の性格からして、そこまで途方もないことにすんなり賛成するとは思えないもの。それから二つ目は、代理出産は日本では違法になる行為で、正当な医療行為とは認められないわ。その点について、紗英はどう考えてるの?」
「S市のエンジェル・クリニックって名前くらいは聞いたことがない?」
 紗英子は今朝、クリニックの院長と直接、電話で話したこと、その内容の細部まで隠すことなく告げた。
「じゃあ、その病院にすべてを任せると?」
「そうね。海外へ行くとなると、言葉の問題もあるし、費用だけでも格段に跳ね上がってしまうから。幸い院長先生も引き受けても良いと言っているし、そこでお世話になろうと思う」
「私は一度、流産してる。三度目は不幸な事故のせいだったとしても、二度めも死産だった。確かに妊娠はできる身体かもしれないけれど、無事に赤ちゃんを産めるかどうか自信はないわ」
 そのときだけ、有喜菜の声が揺れた。
 紗英子は、きっぱりと言った。
「構わないわ」
 もう一度、正面から友の顔を見据える。
「そのときはそのときで、仕方ないと諦める。もちろん、途中で万が一のことがあっても、お礼はちゃんと支払うから」
「途中で流産や死産になったとしても、全額支払うと?」
「ええ、ちゃんと約束どおりのお金を渡すわよ」
 有喜菜が息を呑んだ。
「あなた―、本当にやる気なのね」
「当たり前でしょう。先刻も言ったじゃない。冗談でこんなことを言ったりはしないって」
「でも、直輝は―」
 言いかけた有喜菜の言葉を塞ぐように、紗英子は断じる。
「夫には、あなたの名前は言わないわ」
「―」
「クリニックで紹介して貰った、どこの誰かも判らない女性だと話すつもりよ」
 再び長い沈黙があった。
 その永遠とも思われる沈黙の時間を、今度もまた紗英子は辛抱強く待った。紗英子には判っている。既に有喜菜の気持ちも決まっているはずだ。今の沈黙の長さは彼女の迷いではなく、事態の複雑さを整理し、理解しているにすぎない。
 いや、現実的な彼女のことだから、もう代理出産を引き受けた先―赤ん坊が生まれるまでの身の処し方について考えているのかもしれない。
「判った」
 やはり、と思った。長年の親友の性格を読み違えるほど、紗英子も愚かではない。
 最初から、有喜菜は引き受けるだろうと思っていた。むろん、幾ばくかの不安はあったけれど。
「直輝の赤ちゃんを産むわ、私」
 この時、初めて紗英子はかすかな違和感を憶えた。
 何故、有喜菜は〝直輝の子〟と言うのか。私の卵子と直輝の精子を掛け合わせた受精卵が育って生まれれば、それは間違いなく私たち夫婦の子どもなのに。