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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ

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 S市のエンジェル・クリニックという病院では、日本で唯一の代理母出産を行っていると聞いたことがある。もちろん、違法のため、院長は何度か警察で事情聴取を受けたこともあり、逮捕されかけたこともあるが、いずれも不起訴で釈放された。
 院長はそれでも、
―不妊に悩み苦しむ人たちの光になれば。
 と、依然として代理母出産を取り扱っている。
 まずは、そこに問い合わせてみようと思ったのである。
 電話番号を調べ、携帯でクリニックにかけてみた。その一時間後。
 紗英子は携帯を握りしめ、興奮のあまり頬を紅潮させていた。
 丁度、運も良かった。たまたま時間が空いていたとかで、受付の看護士が院長本人に代わってくれたのだ。
 紗英子の事情をひととおり聞いた院長は、力強く請け合った。
―大丈夫ですよ、卵巣が両方共に健康な状態で残っているのであれば、見込みは十分あります。一緒に元気な赤ちゃんが授かるように頑張りましょう、お母さん。 
 院長はまだ妊娠もしていない紗英子に対して、お母さんと呼びかけた。三十五年間の人生で、〝お母さん〟と呼ばれたのは初めてだった。電話を切ってから、紗英子は一人、ひっそりと涙を流した。
 確認したところによれば、確かにかかる費用は莫大なものだ。紗英子の貯金だけでは当然足りず、実家の両親にも頭を下げて頼まねばならないだろう。
 紗英子一人の我が儘なのだから、直輝や彼の実家は当てにできない。
 更に、紗英子にはまずしなければならないことがあった。

 紗英子は両手を背後について、真っすぐに脚を伸ばして座っていた。草地の上に直に座ることになるが、スカートが多少汚れても構いはしない。
 今はそれどころではなかった。今後の計画がうまく運ぶかどうか。それは、これからの首尾にかかっている。
 もちろん、相手が承諾してくれなくても、道が他にないわけではない。クリニックの院長は言っていた。
―全く面識のない人に代理母を依頼する方が良い場合もありますし、逆に、知らない人よりは自分のよく知っている知人などに頼む方が良い場合もあるんです。要はケース・バイ・ケースですね。信頼できる人に任せて、たとえ自分が腹を痛めるわけではなくても、その経過を見守りたいか、それとも、ただ自分の子どもを生んでくれるという役目を依頼するだけの関係か。その点は矢代さんが十分見極めてください。
 もし、紗英子自身に姉妹がいれば、血縁関係のある間柄の方がより望ましいのだとも言われた。、生まれてくる子どもはむろん遺伝的には我が子に相違ないが、やはり自分が生むわけではないので、情が湧きにくいときがある。そういう場合、姉妹が生んだ子どもだと、割とすんなりと受け容れられるものだというアドバイスも貰った。
 だが、紗英子には残念なことに、姉妹はいない。七十を過ぎる母親に幾ら何でも頼むわけにもゆかず、結局、誰か他人に依頼するしかなかった。
 今、紗英子が座っている場所は、なだらかな傾斜になっていて、その途中だった。
 やわらかな下草がびっしりと生えていて、緩やかな斜面を降りた先は河原になっている。その向こうは澄んだ川面が冬の陽射しを浴びて煌めいていた。
 見れば、河原を若い夫婦が散歩でもしているのか、ゆっくり歩いている。ベビーカーに乗っているのは一歳くらいの赤ん坊で、父親らしい男性が押していた。その傍らをまだ若い母親が寄り添うようにして歩いている。
 良い光景だと素直に今なら思えた。
 たとえ、この計画が上手くいこうといくまいと、やれるだけのことをやれば良い。
 若い子連れは紗英子が眺めているのに気づいてもいないのか、ゆっくりと下の道を通り過ぎていった。子どもが何か面白いことを言ったらしい。父親が子どもに何か話しかけ、母親は弾けるように笑った。
 澄んだ笑い声が清澄な真冬の大気に溶けてゆく。ありふれた、けれど、心温まる和やかな光景である。名残惜しい気持ちで、親子連れを見送っていると、背後から声をかけられた。
「紗英」
 紗英子はゆっくりと振り向いた。
「ごめんね。仕事中なのに」
 有喜菜は首を振った。
「なに水臭いことを言ってるのよ?」
 紗英子の隣に並んで座り、笑いながら言った。
「紗英が急に電話してくるなんて、よほどのことじゃないとないわ」
 どうしたの、何かあったの?
 姉のように優しく訊ねられ、紗英子は一瞬、後ろめたい想いに駆られた。一時は有喜菜が故意に、直輝と自分を仲違いさせようと企んで、時計コレクションのことを話したのだと勘繰ったこともあったからだ。
 が、やはりというべきか、紗英子は今までのように、素直に有喜菜に心を開けない自分を感じていた。直輝が紗英子には二十三年目にやっと披露したコレクションを、有喜菜には二十三年前に披露していた。そのことに拘っているのだ。
 馬鹿げているとは思う。所詮は子ども同士のことにすぎず、直輝の妻となって年月を経た今、何をそこまで拘るのかと自分でも考えるが、理屈と感情が必ずしも一致するとは限らない。
 依然として魚の小骨が喉にかかったような、些細だけれども不快感を憶えずにはいられない何かが紗英子の心から消えてくれない。ふさわしい表現がなかなか見つからないが、強いていえば、それは、ほのかな不信感であった。むろん、有喜菜に対してだけではない。夫に対しても似たような気持ちを抱いている。
「ねえ、紗英?」
 紗英子の様子がいつもと違うことに気づいたのだろう。有喜菜が小首を傾げた。
「本当にどうしたの、何があった? 直輝と喧嘩でもしたの?」
 突如として有喜菜の珊瑚色の唇から出た夫の名に、紗英子はピクリと反応した。
 いや、今は動揺している場合ではない。しっかりしなくては、長年の夢が実現するかどうかの瀬戸際に自分は立っているのだから。
 が、いざ切り出すとなると、話の緒(いとぐち)が見つからない。話の持っていきようによっては、大失敗に終わるだろう。ここは慎重に事を運ばなくては。
 想いに沈む紗英子を、有喜菜は心配と警戒の入り混じったような顔で見ている。
 突如として歓声が響き渡り、二人の間のどこか気詰まりな沈黙を破った。
 思わずホッとして振り向くと、斜面を女の子がすべっている。
「あの制服はN中ね」
 紗英子の口からは無意識に言葉が出ていた。
「そうね」
 有喜菜が応える。
 N中は紗英子や有喜菜、直輝が通った公立中学である。
「それにしても、やんちゃな女の子ねぇ」
 紗英子は笑った。女子中学生は斜面を滑り降りると、後ろ向いてピースして手を振っている。
「もう! 糸(し)織(おり)ったら、危ないじゃない。肝が冷えるわ」
 河原に伸びた小道を向こうから自転車を押した少女がやってくる。セーラー服姿は同じN中の生徒だ。
「優奈(ゆうな)ったら、大袈裟なんだから」
 糸織と呼ばれた少女は笑いながら、走ってゆく。
「ちょっ。糸織、待ちなさいってば」
 自転車の少女は慌てて友達を追いかけていった。
「今時の女の子って、皆、あんな感じなのかしら」
 有喜菜も紗英子も共に三十五歳、早くに子どもを生んでいれば、もうあれくらいの娘がいてもおかしくはない。現に、中学時代の同級生の中には中学生どころか高校生の子どもがいる者だっている。