天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ
ブラに先端が当たっただけで、切ない吐息が洩れてしまうのもそのせいだ。
夫に愛される妻。またもその言葉が頭をよぎり、紗英子は頬を赤らめた。ベランダとリビングはガラス戸一枚で繋がっている。リビングに戻ると、ソファに座り、何の気なしに液晶テレビのスイッチを入れた。
特に意識せずにリモコンを弄っている中に、次々と場面が変わる。何度目かに出たのは民放のいかにも面白くなさそうな連ドラであった。今、売り出し中の若手女優だか何だか知らないが、とにかく演技が下手である。
丁度、主演のその女優とこれは一応、若手の演技派として注目されているイケメン俳優の濡れ場真っ最中であった。
ドラマは明治初期、華族の令嬢が政変で両親やすべてのものを失いながらも、逞しく生き抜いていくいわゆる波瀾万丈ものである。ちゃんと原作小説があるのだが、そちらは最後は、ヒロイン自らが起こした紡績工場が軌道に乗り、女実業家として成功するだけでなく伯爵に見初められて玉の輿に載るというサクセス・ストーリーの王道を行く話だ。
しかし、まだしもベストセラーになった原作にはストーリー性があるものの、肝心のドラマの方にはストーリー性も何もあったものではない。ヒロイン演じる女優が毎回、脱ぐか脱がされるかして、眼を覆いたくなるような濃厚なベッドシーンが披露される。
あまりに悲惨でお粗末な内容に、視聴者からは毎日、クレームの電話が鳴り続けているし、評論家からは、朝ドラであんなハードポルノ張りの卑猥な映像ばかりを流すなどもってのほかと手厳しくこきおろされている。
紗英子はこれまで、相手役のイケメン俳優をひそかに良いなと思っていたのだけれど、このドラマでヒロインを見初める伯爵役を演じる彼を見てからは大嫌いになった。
今も女優も俳優もほぼ全裸といって差し支えない格好になり、ベッドの上で烈しく絡み合っている。女優がただ、わざとらしい喘ぎ声を上げているだけで、到底、見られる代物ではなかった。同じベッドシーンでも、例えば映像の美しさとか、演じ手の迫真の演技とかが引き金となり、鑑賞に堪える見応えのある場面になり得るときもある。しかし、この場合、俳優の方はともかく、女優の配役は完全に失敗であった。
何故か、それが二日前に見た淫らな夢の中の男女と重なり、紗英子は眉をしかめ、慌ててチャンネルを変えた。
それにしても、あの夢の中の女は誰だったのだろう。一旦は忘れかけていた疑問がまた意識の水底からぽっかりと顔を出した。
しかし、次の瞬間、紗英子は眼を見開いた。
今度も局は違うが、民放である。こちらは、いつもこの時間帯はワイドショーをしていた。先ほどのメロドラマよりは少しはマシだけれど、こちらも有閑主婦向けに作られたお粗末な内容の番組といった感がある。
まるで紗英子が美容院や銀行の待ち時間に読む女性週刊誌そのものの情報ばかりが続く。
が、その日は違った。画面に大写しになっているのは、誰かの記者会見らしい。椅子に座った女性タレントが涙ぐみながら、記者の質問に応えている。
―幡多(はた)さん、最後にひとこと、お願いします。現在、日本の法律では代理母出産というのは認められてはおらず、不妊に悩み代理出産を望む女性たちは皆、海外に渡って代理母を捜すしかありません。そんな過酷な状況の中、子どもを持つこと、母親になることを諦めず果敢な努力を続けている方たちにアドバイスして頂けませんか。
女性記者の質問に対し、タレントはハンカチで眼を押さえながら応えた。
―私たちも途中で何度、諦めようとしたか判りません。何でそこまでして子どもを持ちたいのかと随分と批判も受けました。でも、病気で子宮を失ってしまった時、私の子宮には元気に育ちつつある赤ちゃんがいたんです。その赤ちゃんの生命よりも、私は自分が生きるということを選択しました。その時、私は子どもに誓ったんです。必ずママは生きて、あなたを取り戻すからね、必ずママの元に帰ってきてねと。私の子どもを持つという夢は、犠牲にした我が子との約束でもありました。どうぞ、皆さん、最後まで諦めないで、元気な赤ちゃんをその腕に抱くまで治療を続けてください。私のように子宮をすべて失っても、母親になるという道はまだ残されています。私は、今も苦しい治療を続けられているすべての不妊に悩む方々が一日も早く元気な赤ちゃんを授かることを願っています。
会見はそれで終わった。画面は変わり、今度は、かねてから噂のあった人気歌手グループのボーカルと若手人気女優の電撃結婚スクープになった。
だが、紗英子の眼には何も映ってはいなかった。代理母出産。その言葉だけが頭の中を嵐に翻弄される木の葉のように回っていた。
そういえば、と、今更ながらに思い出す。
あの女性タレントは幡多ふゆ香ではなかったか。歳はもう三十歳は過ぎているはずだ。数年前、テレビ局のプロデューサーであった夫との間に第一子を妊娠したが、初期に子宮ガンが見つかり、妊娠十六週で胎児ごと子宮を摘出した。
その後、不妊治療を始めたことで話題になった。既に子宮はないので、残っている卵巣から卵子を取り出し、夫の精子と顕微授精させてから代理母の子宮に戻すという方法が取られた。いわゆる代理母出産である。
幡多ふゆ香の場合は精子と卵子は自分たち夫婦のものを使うため、他人の腹を借りるだけで、生まれてくる子は紛れもない実子ということになる。しかし、中には夫婦どちらかの精子や卵子の状態が良くないため、第三者―非配偶者のものを借りて代理母出産に臨む場合もある。
いずれにしても、日本の現行の法律では認められていないので、海外へ渡って、外国人の代理母に出産を依頼しなければならない。従って、かかる費用も莫大なものがある。
幡多ふゆ香は数度目の挑戦で漸く妊娠にこぎ着けた。彼女は自分が妊娠するわけでもないのに、代理母が妊娠するまでは懐妊祈願に神社に参り、受精卵が着床したと判ってからは、安産祈願に出かけた。その模様も同じワイドショーで放映されていたのを見たことがある。
そして、ひと月前、妊娠中の代理母が海外の病院で無事出産、幡多ふゆ香は数日前に生まれた双子の女の子を連れ、夫とともに帰国した。
―私のように子宮をすべて失っても、母親になるという道はまだ残されています。私は、今も苦しい治療を続けられているすべての不妊に悩む方々が一日も早く元気な赤ちゃんを授かることを願っています。
幡多ふゆ香の言葉が耳奥でリフレインする。
子宮をすべて失っても、母親になるという道はまだ残されている―。その言葉は紗英子の心を真っすぐに捉え、絡め取った。
その瞬間、紗英子の心も決まった。費用の問題もある。直輝が何と言うか―恐らく真っ向から反対するに違いない。
だが、やらねばならない。紗英子は自分のためにこの世に生まれ出ようとしていた生命を犠牲にしたわけでもないし、一度ですら妊娠したことはない。それでも、何としてでも子どもを持ちたいという熱意は誰にも負けはしなかった。
紗英子はすぐに自室からノートパソコンを持ってきて、早速立ち上げた。海外へ渡るというのは最終的な手段にするとして、紗英子にはある考えがあった。
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ 作家名:東 めぐみ