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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ

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 直輝によれば、凜太という職人は基本、特注、個別注文でしか仕事は受けないという。一般店舗で売るために時計を作るということはまずないので、紗英子が時計店で凜太の作った時計を見つけたというのは奇蹟に等しいらしかった。
「どういう経緯で凜太の作った時計がその店にあったかは判らないが、まぁ、ラッキー中のラッキーだったってことだな」
 よほど嬉しいらしく、直輝は左腕に時計を填めたままで、今も撫でさすっている。
「だから、本当に嬉しいよ、ありがとな」
 これだけ歓んで貰えれば、贈る側も甲斐があったというものだ。正直、五万の出費はきつかったけれど、直輝がこれだけ手放しで歓ぶのなら、惜しい出費ではない。あのお金はいつか有喜菜と二人で韓国旅行に行こうと思い貯めていたものだ。
 韓流ドラマを見て韓国ファンになった紗英子は是非、一度、韓国を訪れてみたかった。しかし、直輝はそういうものには全く興味がなく、有喜菜に打診したところ、独身の身軽さもあり、一緒に行くことを快諾してくれた―のだが。
 もう、有喜菜と海外旅行なんてすることもないだろう。夫と有喜菜の間に、紗英子の知っている以上のものが存在すると知った今、有喜菜とは今度、あまり拘わりたくはなかった。判っている。二十年以上も昔、互いに幼かった子どもの頃の出来事でいちいち目くじら立てても仕方ない。
 だが、プラトニックであれ、何かしらの感情が二人の間にかつてあったのだとすれば、紗英子にしてみれば二人にまんまと騙されたような気がするのは当然だった。いや、プラトニックだからこそ、余計に嫌なのだ。肉欲だけの交わりであれば、所詮はそこまで。しかし、身体よりもより深い部分―精神的な繋がりがあるのなら、その方がよほど厄介といえよう。
 しかし、ここでこれ以上事を荒立てるのは、けして利口とはいえなかった。大切なのは、たとえ二十二年かかっても、やっと直輝が心の奥にしまっていた大切なものを紗英子にも見せても良いという気持ちになった―そのことだろうと思う。
 むろん、はるか昔に有喜菜には見せた大切なものを紗英子にはずっと見せなかったことは、実は重大な意味を持つとは理解している。が、ここで騒ぎ立てれば、直輝の心が自分から離れていくのは判っていた。
 だから、今は我慢する。
 私は直輝の妻。たとえ彼が大切なコレクションを有喜菜にだけは見せたとしても、彼が人生の伴侶として選んだのは、この私なのだ。有喜菜なんかに、彼の心は渡さない。
 立場的には、有喜菜よりも自分の方がはるかに優位なのだから、こんなことくらいで動揺する必要はさらさらない。子ども同士の他愛ない出来事だと笑い飛ばして、毅然としていれば良いのだ。
「別に深い意味があって、お前に見せなかったわけじゃないんだ」
 弁解のように言う直輝に向かって、紗英子は笑顔で首を振る。
「良いの、今、直輝さんが見せてくれたから、私はそれで十分」
 言い訳なんてされたら、余計に惨めになるし、二人の間を勘繰りたくなってしまう。 
 紗英子は口早に言うと、微笑んだ。
「さ、冷めない中に早く食べましょう」
 言うだけ言い、後は夫の顔を見ようともせず、ひたすら味のないパンをかじり、苦いヒーヒーを飲んだ。
 紗英子はコーヒーはどちらかといえば苦手で、紅茶党だ。しかし、直輝がコーヒー好きなので、いつも朝は彼に合わせている。時計にしろ、コーヒーにしろ、直輝は拘るとなると、とことん拘る性分なのである。
 結婚する前から、自分の好みよりも直輝の好みを優先させて、ひたすら堪えてきた。何よりも直輝が好きだったし、直輝の側にいたかったから。だからこそ、大勢の美人で知的な女の子たちに言い寄られながらも、直輝のような良い男が自分みたいな平凡な女の子を選んでくれたのだと思う。
 モデル並のルックスを持つイケメンと冴えない女の子、いつも誰もが二人をそんな眼で見てきた。直輝に嫌われない、飽きられないようにするために、紗英子はエステにも通い、いつも最高の自分でいるように心がけた。お化粧の仕方もわざわざ教室に通ってまで憶えたし、料理も習った。すべては直輝にふさわし良い女でありたいと願ったからだ。
 それはけして金銭的にも精神的にも生半な努力ではなかった。でも、そのお陰でずっと直輝の側にいられたし、彼は結局のところ、自分を選んだ。だから、それらの努力もけして無駄ではなかったと思っている。
 それから後は、いつもと変わらない静かな朝の時間が過ぎた。まだ、少しぎごちなさは残っているものの、少なくとも表面上、二人は何もなかったかのようにふるまっている。

♠RoundⅣ(踏み出した瞬間)♠

 直輝を会社に送り出した後、紗英子は洗濯機を回し、すべての部屋中に掃除機をかけた。
イブの夜のご馳走は取っておけるものはラップをかけて冷蔵庫に入れた。今日はまだ二十五日なので、ツリーももちろん、そのまま飾っている。
 ついでに風呂場とトイレも簡単に掃除し、すべてが終わる頃には洗濯が終わっていた。
 住んでいるのは七階の比較的陽当たりの良い部屋なので、洗濯物を干すには助かる。その分、他の部屋よりは家賃も高いのは致し方ない。
 紗英子はベランダに出ると、張ってあるロープに洗濯物を手際よく干してゆく。直輝と紗英子の二人分しかないので、干すといっても知れている。これで育ち盛りの子どもでもいれば、毎日、汚れ物がどっさりとあるのかもしれない。
 一時は大変かもしれないけれど、そんな暮らしを夢見た。でも、それはついに叶わず、見果てぬ夢となった。
 いつまでも終わった過去にしがみついているのは、愚かなことだ。日が経つにつれ、紗英子はそんな風に考えられるようになりつつある。もう子どもを持つという望みは完全に絶たれたが、直輝ではないけれど、かえって、その方が気楽に生きてゆけるかもしれない。セックスだって、排卵日を気にする必要もないし、昨夜のように奔放に楽しもうと思えば楽しめる。
 何より直輝にはかえって心の重しが取れたようで、以前より明るくなった。それほど不妊治療が彼に負担をかけていたのかと思えば、申し訳なさよりはやはり面白くない気持ちが先に立つ。が、とにかく一つの段階は終わった。後は〝お二人さまの老後〟を迎えるまで、夫婦で共通の趣味でも持って人生を前向きにエンジョイすることを考えよう。
 そうはいっても、直輝はまだ三十五歳だ。定年を迎えるまでにはかなりの年月がある。土日以外、彼は仕事で殆ど家にいないから、夫婦の趣味だけでなく、紗英子自身もまた何か夢中になれるものを見つけた方が良い。
 時間はたっぷりとあるのだ。焦らず、探してゆこう。そんな風に自然に考えられるようになったのは、やはり、昨夜の直輝との満ち足りた一夜のお陰だろうか。
 昨夜、直輝はここで紗英子を求めてきた。骨太の手が紗英子のセーターをたくし上げ、荒々しく乳房を鷲掴みにし―。夫の口に胸の突起を吸われたときの感触を思い出し、乳房が重くなった。触れられてもいないのに、想像しただけで、突起がツンと立ち、ブラジャーに当たるのが判った。昨夜、一晩中、直輝に抱かれていた身体の芯は、まだかすかに欲望が燠火のようにくすぶっている。