天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ
直輝と気まずい雰囲気になってからというもの、紗英子に眠りは訪れなかった。仕方なく、六時前には起き出して、キッチンで簡単に朝食の用意を整えた。
二人がけの四角いテーブルにいつものように向かい合って座る。リビングの方には昨夜のパーティの名残というか残骸がまだそのまま手つかずで残っていた。
直輝と二人で迎える聖夜のために心を込めて焼き上げたブッシュ・ド・ノエルや鶏肉の詰め物焼き、冷蔵庫にはよく冷えたシャンペンとグラスが入ったままだし、心弾ませて飾り付けた小さなツリーの点滅するイルミネーションは朝の白々とした光の下では何とも侘びしく興ざめに見えた。
あれを片付けなければならないと考えただけで、溜息が出そうになる。
キッチンにはこんがりと焼けたトーストと淹れ立てのコーヒーの匂いが立ちこめた。コーヒーを淹れるのは毎朝、直輝の担当になっている。直輝はむっつりとした顔で二人分のカップにコーヒーを注いだ。
この白いペアのカップは有喜菜が二人の結婚祝いにと贈ったものだった。共通の友人がわざわざ選んでくれたものだからと、紗英子も大切に愛用してきた。だが、今は、このカップを床にたたきつけて粉々にしてやりたい衝動に駆られる。
まあ、流石にそこまではやる気はないけれど、この際、新しいペアカップを買うのも悪くはないかもしれない。有喜菜を思い出すようなものはできるだけ身近に置いておきたくない。
そこで、紗英子はおや?と 首を傾げた。
いつもなら、朝、コーヒーを淹れた後は、早々と新聞をひろげる直輝が何を思ったのか黙々と食べ始めている。
結婚してから、紗英子はこの夫の癖を事あるごとにたしなめてきた。
―食事中に新聞を読むなんて、お行儀悪いわよ。今はまだ良いけど、子どもが生まれたら、躾けに悪いから止めてちょうだい。
結局、子どもには恵まれなかったが、夫のこの癖は十二年間、ついに直らなかった。最近では、紗英子ももう言うだけ無駄だと思っている。いつか義母―直輝の母に訊ねたら、彼の父親にも、そういう習慣があったという。
―私も子どもの教育に悪いと思ったから、止めてちょうだいって何度も頼んだんだけどねぇ。結局、直らなかったのよ。
義母は笑いながら言った。その言葉は直輝を咎めているようにも聞こえなくもないが、穿った見方をすれば、自分も諦めたのだから、紗英子にも諦めて見て見ないふりをしろと言っているようにも取れる。
直輝は上に姉、下に弟がいる。三人兄弟の真ん中だが、初めての男の子でもあった。中二のときから直輝と交際していたので、もちろん、直輝の母淳子には紗英子自身が中学生の頃から面識がある。さっぱりとした気性で嫁いびりとかいう言葉などとは無縁の人ではあるが、何しろ長男の直輝を溺愛している。
その点では、嫁として色々と付き合いにくい面もあるにはあった。いずれにせよ、義母は長男夫婦ではなく、弟夫婦と同居しているから、長男の嫁とはいえ、紗英子は気楽な立場ではあった。
直輝は結婚と同時に家を出て、紗英子と直輝は小さなコーポラスで新婚時代を送った。今のこのマンションに引っ越したのは、直輝のサラリーがかなり良くなった頃―三十前のことになる。
現在、直輝の実家は弟夫婦が暮らし、姑は彼等と一緒に暮らしている。義弟のところには子どもが次々と生まれて、いつ訪ねても三人の子どもたちの声でかしましい。姑は大変、大変と言いながらも、弟嫁が昼間は共稼ぎで仕事に出ているので、孫を保育園に送り迎えしたり、弟嫁が帰ってくるまで面倒を見たりするのが楽しくてならないようだ。
直輝が朝、新聞を読まないなんて、天地が引っ繰り返るくらい珍しいことなのである。
と、紗英子は夫が物問いたげにこちらを見ていることに気づいた。
「紗英―」
「直君―」
二人ともに声を発したのは、ほぼ時を同じくしていた。
「あ、そちらから、どうぞ」
「いや、お前から」
またも声が揃ってしまい、二人は顔を見合わせた。やがて、また同時にプッと吹き出してしまう。
「さっきはごめんな」
直輝が照れたように髪の毛をかいた。これも紗英子だけが知っている直輝の癖の一つ。夫は困ったときには、必ずと言って良いほど髪の毛を弄る。
「ううん、私も悪かった。ごめんなさい。直君に酷いことを言っちゃった」
紗英子は敢えて昔のように〝直君〟と呼んだ。バターを塗ったばかりのトーストを直輝に差し出す。
これも直輝の習慣の一つ。トーストには絶対にバターしか塗らない。ジャムや蜂蜜などの甘いものは大嫌いなのだ。もちろん、コーヒーにも砂糖やミルクは一切入れない。どんな料理にでも、余分な味付けをするというのが嫌いな男である。
「いや、俺の方こそ、おとなげなく怒鳴ったりして、悪かったと思ってる」
直輝はトーストを手にしたまま、しばらく思案顔だった。やがて、トーストを皿にのせ、立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
キッチンから出て、リビングの方に向かっている。何をするつもりなのかと眼を丸くして見ていたら、ほどなく裁縫箱くらいの大きさの箱を後生大事に抱えてきた。
四LDKのマンションは、キッチン、バスルーム、トイレの他には四部屋ある。それぞれ、夫婦の寝室、直輝の書斎、紗英子の居室、リビングという風に割り当てて使っている。
その箱は直輝の書斎ではなく、いつも居間の液晶テレビが据え付けてある台の下の棚に置かれていた。直輝個人のものなので、紗英子が無断で触れたことはない。
見た目は裁縫箱くらいの大きさで、木製の温もりの感じられる仕様だ。蓋にはアイボリーで〝WOODY TIME〟とプリントされている。あまり飾り気はないが、宝石箱か、小物入れといった感じだ。
直輝は箱の蓋を開いたままの状態で、紗英子に指し示した。
「見てごらん」
「凄いわ」
紗英子は思わず歓声を上げた。
上蓋が開いた箱の中は紅のビロード張りで、中には数え切れないほどの腕時計が並んでいた。
「どうだ、なかなかだろ」
得意げに言う様子は、中学生どころか小学生の男の子が宝物を披露するようである。
「有喜菜に見せたときは、まだ、この十分の一も集まってなかったと思う」
せっかくの夫婦の語らいに、またしても有喜菜が登場したことに―しかも直輝の方から先に出してきたことには鼻白んだものの、こここで指摘すれば、元の木阿弥になりかねない。
「これだけ集めるのは大変だったでしょ」
「まあ、な。仕事で海外に行ったときとか、国内でも仕事柄、あちこち行く機会があるから、そういうときに珍しい時計を探すんだ」
広告代理店といえども、様々な部署がある。直輝は営業だから、出張は多いのは確かだ。
「それにしても、よく集めたものねぇ。よほど時計が好きじゃないと、これだけ揃えるのは無理だわ」
「京都に行ったときに、凜工房も訪ねたことがあるんだ。何しろ、あの工房は時計に興味のある人間にとっては一度は脚を運んでみたい場所だからな。けど、そこの職人っていうのがまだ二十代の若さだっていうのに、頑固爺ィも顔負けの偏屈さで、何度訪ねても逢ってくれないんだ。結局、三度訪ねても逢えずじまいで、それきり、もう諦めてた」
二人がけの四角いテーブルにいつものように向かい合って座る。リビングの方には昨夜のパーティの名残というか残骸がまだそのまま手つかずで残っていた。
直輝と二人で迎える聖夜のために心を込めて焼き上げたブッシュ・ド・ノエルや鶏肉の詰め物焼き、冷蔵庫にはよく冷えたシャンペンとグラスが入ったままだし、心弾ませて飾り付けた小さなツリーの点滅するイルミネーションは朝の白々とした光の下では何とも侘びしく興ざめに見えた。
あれを片付けなければならないと考えただけで、溜息が出そうになる。
キッチンにはこんがりと焼けたトーストと淹れ立てのコーヒーの匂いが立ちこめた。コーヒーを淹れるのは毎朝、直輝の担当になっている。直輝はむっつりとした顔で二人分のカップにコーヒーを注いだ。
この白いペアのカップは有喜菜が二人の結婚祝いにと贈ったものだった。共通の友人がわざわざ選んでくれたものだからと、紗英子も大切に愛用してきた。だが、今は、このカップを床にたたきつけて粉々にしてやりたい衝動に駆られる。
まあ、流石にそこまではやる気はないけれど、この際、新しいペアカップを買うのも悪くはないかもしれない。有喜菜を思い出すようなものはできるだけ身近に置いておきたくない。
そこで、紗英子はおや?と 首を傾げた。
いつもなら、朝、コーヒーを淹れた後は、早々と新聞をひろげる直輝が何を思ったのか黙々と食べ始めている。
結婚してから、紗英子はこの夫の癖を事あるごとにたしなめてきた。
―食事中に新聞を読むなんて、お行儀悪いわよ。今はまだ良いけど、子どもが生まれたら、躾けに悪いから止めてちょうだい。
結局、子どもには恵まれなかったが、夫のこの癖は十二年間、ついに直らなかった。最近では、紗英子ももう言うだけ無駄だと思っている。いつか義母―直輝の母に訊ねたら、彼の父親にも、そういう習慣があったという。
―私も子どもの教育に悪いと思ったから、止めてちょうだいって何度も頼んだんだけどねぇ。結局、直らなかったのよ。
義母は笑いながら言った。その言葉は直輝を咎めているようにも聞こえなくもないが、穿った見方をすれば、自分も諦めたのだから、紗英子にも諦めて見て見ないふりをしろと言っているようにも取れる。
直輝は上に姉、下に弟がいる。三人兄弟の真ん中だが、初めての男の子でもあった。中二のときから直輝と交際していたので、もちろん、直輝の母淳子には紗英子自身が中学生の頃から面識がある。さっぱりとした気性で嫁いびりとかいう言葉などとは無縁の人ではあるが、何しろ長男の直輝を溺愛している。
その点では、嫁として色々と付き合いにくい面もあるにはあった。いずれにせよ、義母は長男夫婦ではなく、弟夫婦と同居しているから、長男の嫁とはいえ、紗英子は気楽な立場ではあった。
直輝は結婚と同時に家を出て、紗英子と直輝は小さなコーポラスで新婚時代を送った。今のこのマンションに引っ越したのは、直輝のサラリーがかなり良くなった頃―三十前のことになる。
現在、直輝の実家は弟夫婦が暮らし、姑は彼等と一緒に暮らしている。義弟のところには子どもが次々と生まれて、いつ訪ねても三人の子どもたちの声でかしましい。姑は大変、大変と言いながらも、弟嫁が昼間は共稼ぎで仕事に出ているので、孫を保育園に送り迎えしたり、弟嫁が帰ってくるまで面倒を見たりするのが楽しくてならないようだ。
直輝が朝、新聞を読まないなんて、天地が引っ繰り返るくらい珍しいことなのである。
と、紗英子は夫が物問いたげにこちらを見ていることに気づいた。
「紗英―」
「直君―」
二人ともに声を発したのは、ほぼ時を同じくしていた。
「あ、そちらから、どうぞ」
「いや、お前から」
またも声が揃ってしまい、二人は顔を見合わせた。やがて、また同時にプッと吹き出してしまう。
「さっきはごめんな」
直輝が照れたように髪の毛をかいた。これも紗英子だけが知っている直輝の癖の一つ。夫は困ったときには、必ずと言って良いほど髪の毛を弄る。
「ううん、私も悪かった。ごめんなさい。直君に酷いことを言っちゃった」
紗英子は敢えて昔のように〝直君〟と呼んだ。バターを塗ったばかりのトーストを直輝に差し出す。
これも直輝の習慣の一つ。トーストには絶対にバターしか塗らない。ジャムや蜂蜜などの甘いものは大嫌いなのだ。もちろん、コーヒーにも砂糖やミルクは一切入れない。どんな料理にでも、余分な味付けをするというのが嫌いな男である。
「いや、俺の方こそ、おとなげなく怒鳴ったりして、悪かったと思ってる」
直輝はトーストを手にしたまま、しばらく思案顔だった。やがて、トーストを皿にのせ、立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
キッチンから出て、リビングの方に向かっている。何をするつもりなのかと眼を丸くして見ていたら、ほどなく裁縫箱くらいの大きさの箱を後生大事に抱えてきた。
四LDKのマンションは、キッチン、バスルーム、トイレの他には四部屋ある。それぞれ、夫婦の寝室、直輝の書斎、紗英子の居室、リビングという風に割り当てて使っている。
その箱は直輝の書斎ではなく、いつも居間の液晶テレビが据え付けてある台の下の棚に置かれていた。直輝個人のものなので、紗英子が無断で触れたことはない。
見た目は裁縫箱くらいの大きさで、木製の温もりの感じられる仕様だ。蓋にはアイボリーで〝WOODY TIME〟とプリントされている。あまり飾り気はないが、宝石箱か、小物入れといった感じだ。
直輝は箱の蓋を開いたままの状態で、紗英子に指し示した。
「見てごらん」
「凄いわ」
紗英子は思わず歓声を上げた。
上蓋が開いた箱の中は紅のビロード張りで、中には数え切れないほどの腕時計が並んでいた。
「どうだ、なかなかだろ」
得意げに言う様子は、中学生どころか小学生の男の子が宝物を披露するようである。
「有喜菜に見せたときは、まだ、この十分の一も集まってなかったと思う」
せっかくの夫婦の語らいに、またしても有喜菜が登場したことに―しかも直輝の方から先に出してきたことには鼻白んだものの、こここで指摘すれば、元の木阿弥になりかねない。
「これだけ集めるのは大変だったでしょ」
「まあ、な。仕事で海外に行ったときとか、国内でも仕事柄、あちこち行く機会があるから、そういうときに珍しい時計を探すんだ」
広告代理店といえども、様々な部署がある。直輝は営業だから、出張は多いのは確かだ。
「それにしても、よく集めたものねぇ。よほど時計が好きじゃないと、これだけ揃えるのは無理だわ」
「京都に行ったときに、凜工房も訪ねたことがあるんだ。何しろ、あの工房は時計に興味のある人間にとっては一度は脚を運んでみたい場所だからな。けど、そこの職人っていうのがまだ二十代の若さだっていうのに、頑固爺ィも顔負けの偏屈さで、何度訪ねても逢ってくれないんだ。結局、三度訪ねても逢えずじまいで、それきり、もう諦めてた」
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅲ 作家名:東 めぐみ