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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】 Ⅱ

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 だが、果たして本当にそうなのだろうか。自分は夫について―直輝のことをすべて知っているといえるのか。
 紗英子の中で拭いようのない疑念が生まれた瞬間であった。
 紗英子は目まぐるしく思考を働かせた。こういう場合、夫をあからさまに責め立てたり、追及したりしてはいけない。確か、女性週刊誌の〝夫の効果的な操縦法〟特集に書いてなかったか。
「ねえ、一つだけ訊いても良い?」
 紗英子は甘えるような口調で訊ねた。
「うん、何だ?」
 直輝を見ても、特に警戒している様子はない。
「有喜菜って、直輝さんの家に遊びに行ったことがあるんだって?」
 重くならないように、あくまでもさりげなく。紗英子は自分に言い聞かせ、言ってから夫の横顔を盗み見た。
 しかし、直輝の表情は少しも変化はしなかった。全く不自然なほどに。
 また、わずかな間があり、直輝がぼそりと返した。
「そんなこともあったっけ」
「まさか、付き合ってたりしたとか?」
 今度はすぐに反応があった。
「馬鹿か、お前。有喜菜と俺がどうして付き合わなきゃならないんだよ。あいつと知り合ったのは、確かに俺が紗英子と出逢うよりは前のことだけど、それだって、たった数ヶ月の差しかないじゃないか」
 それが付き合っていなかったという理由にも証拠にもならない。内心はそう言い返したかったけれど、まさか、口にはできない。
 だがと、思い直した。仮にそのようなことが―それに近いことがあったとして、それがどうしたというのか。自分は今や直輝の妻であり、直輝との間には恋人として付き合った九年と結婚して以来、夫婦として過ごした十二年間がある。その間、紗英子はずっと直輝の特別な存在であった。
 万が一、有喜菜と直輝との間に何らかの淡い感情があったのだとしても、今になって、そのことで悩む必要があるとは思えない。まさに、紗英子が直輝とともに築いてきた年月の重みの前では、取るに足りないことだ。
「クリスマスプレゼントとして腕時計を贈ったらってアドバイスしてくれたのは有喜菜なのよ」
 また沈黙。しばらくして、直輝が小さく応えた。 
「そっか」
 それきり、気まずい雰囲気が二人の間に漂った。紗英子は何か喋らなければならないような気がして、口を開く。
「有喜菜が言ってた。中一の頃、直輝さんの家に遊びにいって、そこで時計のコレクションを見せて貰ったんだって。それで、私にそのことを教えてくれたのね」
 直輝は依然として何も言わない。紗英子は二人の間の空白を埋めたい一心で、またもや次の言葉を発した。
「私ったら、そんなこと、全然知らなかった。直輝さんが腕時計を集めてたなんて、昨日、有喜菜から聞いて初めて知ったのよ」
 ちょっとショックだった。
 言おうかどうしようかと迷った末、とうとう口にしてしまった。
「直輝さん、何で私には教えてくれなかったの? ―っていうか、そのコレクションを見せてくれなかったの? まるで私だけがのけ者にされているようで、哀しかったわ」
 あれほど責める言葉は口にしてはいけないと自戒していたというのに、やはり、言ってしまった。
 そう思っても、言葉は二度と取り戻せやしない。そうなると、直輝がなかなか応えないことにも意味があるような気がして、余計に苛立ってしまう。
「ねえ、どうして?」
「別に理由なんて、ないさ」
「でも、そんなに腕時計に興味があるのなら、私と付き合ってた頃に、少しでも、そういう話をしたはずじゃない?」
「誰だって、他人には話さずに大切にしまっておきたいものがあるだろ」
「他人? 私は直輝さんにとって、他人なの?」
「そういう問題じゃないだろうが」
「話をはぐらかさないで。私が他人だから話したくなくて、有喜菜には話せた? なら、有喜菜は一体、あなたの何なのよ?」
「そういう言い方は止せ。別に有喜菜が悪いわけじゃない。俺が―ただ、お前に話さなかっただけだ」
 そのひと言は紗英子の心を鋭く抉った。
―俺がただ、お前に話さなかっただけだ。
 自分一人で大切にしておきたいことは、他人には話さないと直輝は言う。ならば、その大切なことを話した有喜菜は他人ではないということになる。では、話さなかった紗英子は何なのだろう?
 私は彼にとって何なの?
 直輝に愛されて、彼のことなら何でも知っている―つい先刻までは自信に満ち溢れていたのに、今はこんなにも心許ない。もしかしたら、良い気になっていたのは紗英子一人だったのか?
 直輝と歩んできたこの長い年月は、彼にとっては何の意味も持たないものだったのか?
 夫婦として苦楽を共にしてきた紗英子よりも、有喜菜との友情の方が大切なのだろうか。 いや、それは違う。直輝が有喜菜にそのことを話したのは、もう二十三年も前の昔だ。それを今更とやかく言っても始まらないのは判っている。しかし、紗英子が気がかりなのは、その後、直輝は紗英子に話そうと思えばいつでも話せたはずなのに、一向に話してくれなかったことだ。それが何より辛かった。
 所詮、自分は直輝にとって、その程度の存在なのだろうかと考えると、情けない。
「ともかく、もうこの話は終わりにしよう」
 直輝が突如として、宣言するように言った。
 低い、感情のこもらない声はつい今し方まで紗英子に熱く〝愛している〟と囁き、情熱的に何度も彼女を抱いた男とは全くの別人だった。
 紗英子はふいに有喜菜が憎らしくなった。何もかも、あの女のせい。有喜菜が私に直輝との秘密を暴露したりするから。
 現実には秘密を暴露したわけではなく、ただ直輝へのプレゼントに悩む紗英子に適切なアドバイスをしてくれただけなのだが。
 しかし、あの時、有喜菜に二人を仲違いさせてやろうという邪心がなかったと誰が言い切れるだろう。―そう考えてしまうのは、自分の心が歪んでいるせいだろうか。
「直輝さんって、やけに有喜菜を庇うのね」
 思わず落ちた呟きを直輝は聞き逃さなかった。
「煩い。良い加減にしろッ」
 直輝は怒鳴ると、紗英子に背を向け再びベッドに横たわった。
 こんなにすぐ側にいるのに、何故か直輝の背中が随分と遠く感じられる。たった今まで、幾度も愛を交わし、熱い身体を重ねた二人なのに、こんな風に冷たくよそよそしい関係になってしまうのは何故なのか。
 やはり、紗英子が余計なことを言ったのが原因だろうか。しかし、考えまいとすればするほど、疑問は大きく膨らんでゆく。
 直輝の言うように、人は誰しも土足で踏み込まれたくない場所がある。心の聖域とでも呼べば良いかもしれない。そして、その聖域に立ち入ることを許せるのは、やはり、その人にとって最も近しいか、慕わしい存在であるだろう。
 直輝にとっては、その聖域に立ち入らせて良い者は有喜菜であって、紗英子ではなかった。その違いというか、意味は大きいと思う。しかし、直輝との結婚生活をこれからも維持していくつもりならば、これ以上、そのことについて言及するのは避ける方が賢明だ。
 紗英子もまた裸のまま上掛けの下にすべり込んだ。パジャマや下着は直輝に脱がされたまま、まだ下に散らばっている。