天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】 Ⅱ
身体が情事の後の特有のけだるさに包まれていた。紗英子はゆっくりと瞼を開き、首を回して傍らを見た。すぐ側で直輝が安らいだ寝顔を見せていた。二人きりの寝室に、直輝の規則正しい寝息だけが聞こえていた。
枕許の置き時計を見ると、針は午前四時を少し回ったところだ。イブのパーティを始めたのは確かまだ日付が変わる前、九時過ぎだったから、少なくとも三、四時間は眠ったのだろう。
暗い室内はまだ暖房の余熱が残っていた。タイマー設定をしていたので、途中で切れてしまったらしい。紗英子はそろりとベッドに身を起こし、用心しながら降りてヒーターをつけにいった。
直輝に抱かれた―しかもこんなに烈しく抱かれたのはもう数年ぶりのことだ。いや、不妊治療を始めてからは、極めて儀礼的なセックスしかしなかったから、数年ぶりどころではないかもしれない。
とはいえ、別に初夜―処女を失ったわけではないから、身体がきついということはない。それでも、久しぶりに男を受け容れた身体はやはり、下半身に鈍い痛みはかすかだけれど残っていた。
が、身体はだるくても、心は妙に弾んでいる。我ながら現金なものだと紗英子は思う。
それでも、頬がひとりでにしまりなく緩んでしまうのは、やはり、満たされた妻の余裕というものだろうか。
子どものできないセックスなど、何の意味もないものだと思っていたのに、やはり、好きな男とのセックスというのは、そのような理由づけなど越えた極上のものなのだろうか。
まだ余熱があるとはいえ、真冬の早朝はかなり冷える。裸のままの紗英子は小さなくしゃみをし、慌ててベッドに戻った。ほどなくヒーターがつけば、冷え切った空気も直に暖められる。
ベッドに戻ると、再び上掛けの下にすべり込んだ。
紗英子はしばらく直輝の寝顔を眺めていた。何もかもを預けたような、安心しきった表情が微笑ましい。思わず涙ぐんでしまうほど、この男を愛おしいと思えた。
自分の心はとうに冷え切っていたと思っていたのに、まだ夫への愛情は奥底で眠っていたのだ。昨夜、直輝に抱かれたことによって、その眠っていた感情がめざめたのかもしれない。それは長らく放置され、セックスで快感を得ることを忘れてしまっていた紗英子の身体にも似ていた。
直輝は夕べ、紗英子のその凍った身体に火を点し、彼女の中の官能―女である感情を目覚めさせたのだ。そして、女であることに気づいたときに、紗英子の夫への想いもまた再び芽吹いた。
「紗英子」
唐突に直輝の声が耳を打ち、紗英子は現実に引き戻された。
「あなた」
吐息のような声が洩れた。
今更だが、昨夜の自分の乱れ様を思い出して、恥ずかしい。まともに夫の顔を見られなくて視線を逸らすと、直輝の黒い瞳が光を放ち、真っすぐ射貫くように見つめていた。
「良かったよ、とても。それに、俺の腕の中であんな風に乱れる紗英子が物凄く可愛かった」
確か紗英子が直輝に服を脱がされ、生まれたままの姿になっ時、彼はまだ服を着ていたはずだ。あまりに烈しい情事に流され翻弄され、直輝がいつ服を脱いだのかさえも憶えていない。
今、当然ながら、彼は裸であった。一糸纏わぬ姿で、紗英子のプレゼントした凜工房の時計だけを腕に填めている。
鍛え抜かれ、引き締まった身体に腕時計だけ身につけている―、その姿が何故かとても淫らでエロティックに思え、紗英子はカッと身体の芯が熱くなった。
淫らな思考に呼応するかのように、下腹部からジュルリと淫らな液が滲み出るのが判った。
私ったら、何を考えているの?
数時間の中にあれほど烈しく抱かれ、幾度も絶頂を迎えたにも拘わらず、淫らな自分の身体はもう貪欲に反応している。紗英子は自分が急に見知らぬ淫乱な女になったような気がした。
そういえば、と思い出す。直輝と口論して淫らなおぞましい夢を見た朝も、こんな風に秘所がしとどに濡れていた。もっとも、今、自分の秘所が濡れているのは自分の愛液だけでなく、直輝が幾度も放った精が混じってはいるのだろうけれど。
あのときの夢に出てきた女のことが妙に気になった。あれは自分だったのだと無理に納得しようとしても、心のどこかで違うと言い張る声がする。別にどうでも良いことだと言えば言えたが、何故か気になってしまうのは自分でもおかしかった。
直輝はいつしか腹ばいになっている。紗英子がぼんやりとしている間に、取ってきたものか、火を付けた煙草をくわえていた。
紗英子はゆっくりと身を起こした。直輝の視線が露わになった乳房に注がれている。そのまなざしにまだ情事のときの熱さと衰えることのない獣じみた欲望を感じ取って、紗英子は頬を赤らめた。慌て上掛けを引き上げ、胸許を隠す。
しかし、悪い気分ではなかった。またもや、夫に愛され、満たされた妻の心―などと、いつか女性誌で読んだ記事のタイトルが浮かんでくる。それはセックスレスの女性には到底、縁のない言葉。
そう、私は満たされている。夫にこんなにも愛されている。この私ほど幸せな女がいるだろうか?
かすかな優越感に浸っていると、自然に一人の女の顔が脳裏をよぎった。
直輝が紗英子の胸許から視線を外し、ゆっくりと動かした。何を考えているのか、宙に視線をさまよわせている。
「この―時計」
「ん?」
直輝が小首を傾げた。これも夫の癖の一つだ。中学時代からの数ある癖。中三の時、練習試合でサッカーボールが右耳に当たり、少し聴力が落ちた。よく聞こえない時、直輝はこんな風に心もち首を傾ける。
直輝の仕草の一つ一つがこんなにも愛おしい。自分の中にまだ、夫への愛情がこれほど残っていたこと、この男が自分にこれほどまでに影響力を持つことに紗英子は今更ながらに愕いていた。
直輝について、私に知らないことはない。
妻の自信というものだ。夫に愛される妻だけに許された特権。
また、あの女の顔が瞼に浮かんで消える。
「昨日の夜、私がプレゼントした時計ね」
「ああ」
直輝が煙草の先をクリスタルの灰皿に押しつけた。おもむろに起き上がり、紗英子を見つめる。
「凜工房の時計なんて、なかなか手に入らないんだ。何しろ一人の職人が一つ一つ手作りで拵えている稀少品だから、大量生産できない。時計マニアなら、誰でも欲しがる垂涎の品さ」
直輝は腕に填めた時計を見て、満足そうに言う。
「それにしても、紗英子が凜工房を知ってるなんて、少し愕いたよ」
「直輝さんって、時計マニアなの?」
え、と、小さな呟きが洩れた。意外なことを言われたと思ったのは明白だ。直輝は眼をわずかに見開いて紗英子を見返した。
戸惑いが韓流スターに似た端正な顔に浮かんでいる。
「まあ、そう呼ばれてもおかしくはないだろうな。それが、どうかしたのか?」
「この時計ね。何を選んだら良いか判らなくて、有喜菜に相談したのよ」
微妙な沈黙があった。直輝はもう一度、腕時計を眺める。
「―有喜菜に逢ったのか?」
「ええ」
その刹那、直輝の表情が動いたような気がして、紗英子はハッと胸をつかれた。慌てて窺い見ても、夫の整った面に起こった爪の先ほどの変化はもう完全に消えていた。
夫に愛される妻。夫のことを何でも知っていると自負している自信に満ちた妻。
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】 Ⅱ 作家名:東 めぐみ