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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】 Ⅱ

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 忌まわしい夢を見てしまったあの朝、直輝はとうとうマンションには戻らなかった。そのまま出社したようだ。ご丁寧に着替えまで持って出かけたのかどうかは知らないが、帰ってこなかったところを見ると、紗英子の嫌な想像は当たらずとも遠からずなのかもしれない。
 もっとも、酒を飲むだけ飲んでカプセルホテルかビジネスホテルに泊まるという線もあるから、外泊だけで夫が他の女と寝たとは限らないけれど。
 しかし、自分の見たあの淫らな夢がもしかしたら、正夢だったのかもしれないとも思えた。いずれにせよ、直輝にあの夜をどこでどう過ごしたかなんて、訊ねる気はさらさらない。
 いや、もしかしたら、自分は怖いのかもしれない。もし夫に訊ねて、あっさりと真実を白状されたら、その時、自分はどのような反応をするのだろう。他の女と寝たと堂々と宣言した夫と一つ屋根の下に暮らせるだろうか?
 応えはNOだ。何事にも潔癖で周囲からはいささか面白くないとまで評される常識家の自分。そんな自分が浮気を認めた夫を許せるとは思えない。今の安定した暮らしを失いたくないのであれば、ひたすら口をつぐんで知らないふりを通すしかないのだ。
 だが、本当のところ、自分は何を望んでいるのだろうか。夫に守られる安穏な主婦としての日々? それとも、直輝自身を失いたくないと思っている? 彼を誰にも渡したくないと思っているのか?
 多分、そのどちらもが本音なのに違いない。自分では認めたくないけれど、この男に愛想が尽きたと言いながらも、心のどこかで自分はまだ夫を愛している。手放したくないと思っている。
 だが、直輝の方はどうなのだろう。昨夜の言葉を聞いた限りでは、あまり見込みはなさそうに思える。あれを聞かなければ、入院中、彼が見せてくれた数々の優しさや労りを心から信じ、彼はまだ自分を愛していると信じられたことだろうが。
 紗英子が想いに耽っていると、ふいに間近で深みのある声が響いた。
「ハッピー・クリスマス」
 ざっくりとした緑のタートルセーターに、チャコールブラウンのゴーデュロイのズボンは彼のモデル並の体躯を際立たせている。近づいた拍子に、夫がいつもつけているローションの香りが鼻腔をくすぐった。
 深い森林を思わせるような、ほのかな白檀の香り。
 直輝の差し出された大きな手のひらには、不似合いなほど小さな箱が乗っていた。深紅の艶やかな紙で包まれ、緑のリボンが愛らしくかかっている。
「今年は結婚記念日も祝えなかったから。少し奮発しておいた」
 その声音にはほのかな甘ささえ滲んでいて。到底、わずか二日前に夫婦にとっては致命的な喧嘩をしたとは思えないような様子である。もし、これが演技なのだとしたら、直輝は容貌だけでなく、演技力もソン・イルグク級だということになる。
 夫の気持ちが理解できないまま、紗英子も無理に笑顔を作った。
「メリー・クリスマス」
 用意しておいた細長い箱を直輝に差し出す。
「これは?」
 直輝が片眉だけを器用にはね上げて見せる。これは演技ではない。長年の付き合いで、直輝が愕いたときは、この表情を見せるのは知っている。
 まあ、十三年の結婚生活で紗英子が直輝に記念日の贈り物をしたのはこれが初めてなのだから、彼が愕くのも無理はない。
「私からのプレゼント。いつも直輝さんから貰ってばかりだったでしょ。だから、今年からは私も何か用意しようと思って。急に思いついて買ったから、たいしたものは用意できなかったけど」
 グリーンの包装紙に〝For You〟とプリントされたゴールドのシールが貼ってある。
「紗英子がプレゼントくれるなんて、思ってもみなかったな」
 直輝は満更でもないらしく、包装紙を解きながら表情を緩ませている。そんな屈託ない彼の笑顔を見るのは久しぶりのような気がして、紗英子も嬉しくなった。 
 縦長の箱がまず現れ、蓋を開くと、更に紺のベルベットの箱が入っている。直輝は待ちかねたように、ベルベッドの箱を開けた。
「おー、これは凄い」
 こんな風に歓ぶ彼を見ていると、付き合い始めた十四歳の頃を思い出す。学生服姿の直輝とセーラー服の紗英子はいつも二人一緒だった。あまりに始終くっついているので、何度か当時の担任や生徒指導の先生から呼ばれて、二人の関係について訊ねられたことさえあるほどだ。
 訊ねにくいことだけれどと前置きして訊かれたのは、当然ながら、二人がプラトニックな関係にとどまっているのかどうかという点においてであった。
 普通ならば、そこまで学校側が関与することはないのだが、ある生徒が二人のあまりの親密ぶりを親に話したところ、父兄の方から匿名で二人の関係について問い合わせがあり、全体の風紀を乱す元になりはしないのかと苦言を呈されたという。それで、やむなく二人を呼んで訊ねたという説明がなされた。
―俺たち、絶対に疚しいことなんてしてません。
 直輝は男らしく堂々と応え、そんな彼を紗英子は頼もしく見ていた。
 確かに、当時はまだキスさえしたことがなかった。同じ高校に通い出した高校一年の夏休みに海へ行った帰りにファーストキスを交わし、初めてホテルで身体を重ねたのは大学三年のときだ。初めて結ばれたその日に、直輝は紗英子にプロポーズした。
 既にその時、付き合い始めてから、八年の年月が流れていた。直輝は一度も結婚なんて口にしたことはなかったけれど、紗英子は自分たちがいずれそうなることを予感していた。
 直輝は良い加減な男ではない。彼は男気のある男だから、一度始めたことを途中で放り出したりはしない。もちろん、どちらかを選ばなくてはならない場面に遭遇したとすれば、より責任を負わねばならない方を選択するだろうが。
 それとも、彼も人間だから、やはり義務や責任といったものよりも、己れの感情や気持ちに素直に従って行動するときもあるのか。
 思えば、直輝とは幾つもの季節を共に過ごし、歳を重ねてきた。彼は単に夫というだけでなく、幼いときから同じ時間と想い出を共有してきた友であり同士でもあった。
 何故だろう、自分は大切なことを忘れていたような気がする。  
 またも想いに沈んでいる紗英子の耳を、直輝の声が打った。
「凜工房の時計なんて、安いものでも五万はくだらないだろう? 嬉しいよ。ありがとう」
 邪気のない笑顔は、本当に中学生の彼に戻ったようだ。やはり、直輝が時計通だというのは本当なのかもしれない。あの時計店の販売員は、凜工房の時計の良さは、通にしか判らないと言っていた。
「紗英子、外出したのか? これを買いにわざわざ出かけたんだろ」
 気がつくと、直輝が心配げに見つめている。
 今度は心からの笑顔になれた。
「近くだから、たいしたことはないわよ」
「どこまで行ったんだ?」
 言葉は詰問口調だが、直輝が自分の身体を心配だと訴えているような気がして、悪い気はしない。
「N駅の地下街」
「駄目じゃないか。あれほど言っただろ。今は静かにしてなくちゃ駄目だ」
「大丈夫よ。お医者さまももう普通の生活に戻っても良いと言われたもの」
「そうは言っても、油断は禁物だぞ。せめて今年いっぱいくらいは大人しくしてろよ。出歩きたい気持ちは判るけどさ」
 紗英子は思わず苦笑した。