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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】 Ⅱ

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 翌朝の目覚めはすごぶる悪かった。
 それにしても、あんな夢を見るなんて。
 紗英子は眉をしかめながら、緩慢な動作で起き上がった。頭が重い。
 まだ退院してまもないのだから、体調が一人前でないのも仕方ないのかもしれない。そうは思いながらも、身体が気持ちについてゆかない現実に紗英子は苛立った。
 少し吐き気もする。こめかみにズキリとした痛みを憶え、紗英子はふらつく身体を意思の力で支えるようにしてキッチンまで歩いた。病院から処方された鎮痛剤と吐き気止めを水で流し込む。
 薬がすぐに効くはずもないが、冷たい水は今の不快感を少しは和らげてくれた。
 キッチンには四角いテーブル、椅子が置いてある。その一つに腰を下ろし、紗英子は長い髪を無造作にかき上げた。途端にたくさんの髪の毛が抜け落ち、床に散らばった。
 これも女性ホルモンの影響だろう。医師が言っていたことを、ぼんやりと思い出す。
 子宮摘出後は、女性ホルモンが減少するため、更年期障害のような症状が出るだろうと言われた。
―矢代さんの場合は、卵巣が機能していますから、そこまで深刻にはならないでしょうが、それでも、来るものは来るでしょう。もちろん、そういった症状は薬を適宜処方して服用することによって対応してはいきますので、ご心配なく。
 その症状の一つとして、大量の髪の毛が抜け落ちることもあり得る―と予め聞かされてそれほど愕きはしないが、やはりショックは隠せない。
 それにしても、あの夢は一体、何だったのだ。
 紗英子はまた、神経質に髪の毛をかき上げ、抜け落ちた髪の毛に眉を寄せる。
 あんな夢を見たのは生まれてこのかた、初めてだ。途方もない、淫らな夢。
 夢の中で、紗英子は観客にすぎなかった。
 大きな幅広の寝台の上で烈しく身体を貪り合う男女。その一方の男は直輝だとはっきり判った。男は観客である紗英子に顔を向ける位置におり、女の顔は紗英子から判別はつかず、ただ後ろ姿が見えるだけ。
 直輝が烈しく下から突き上げる度に、女は嬌声ともとれる喘ぎ声を上げ、腰をくねらせる。鍛え抜いた逞しい身体に華奢な女を跨らせている直輝、直輝はちょうど寝台の上に座っている。両手を後方につき、自分の身体を支えるようにして座り、その上に女があられもなく大股を開いて跨っている。
 後ろにいる紗英子からは見えないが、二人がある一カ所で深く繋がり合っているのは明らかだ。
―あ。ぁ、ああっ。
 二人の情交は延々と続き、ついに終焉を迎えた。女がひときわ高い声を放ち、豊満な肢体を仰け反らせた。次いで直輝もまた最後の鋭いひと突きで女を刺し貫き、頂点へと上りつめたようだ。たとえ直接眼にはせずとも、直輝が女の胎内深くで熱い飛沫を思うがまま散らすのが紗英子にはよく判った。
 何で、あんな夢を見たのかしら。
 昨夜、夫が久しぶりにセックスしようなどと言ったからだろうか。しかし、子どもも授からないと判った今、自分にそんな願望があるとも思えなかったのに。
 紗英子はまた知らない間に、眉根を寄せてていた。と、下腹部をつうーっと何かがつたい落ちてゆくのが判った。
 な、なに?
 慌ててトイレに駆け込むと、パジャマのズボンを降ろす。紗英子はそこで烈しい衝撃を受けた。
 ショーツがしっとりと濡れていたのだ。
 馬鹿な、そんなことがあるはずがない。幾度も否定しようしたけれど、眼の前に動かぬ証がある以上、認めないわけにはゆかない。
 ショーツのクロッチ部分には、小さな滲みが幾つもできていた。
 濡れて―いる?
 紗英子は愕然として、その淫らでおぞましい証を見つめた。別に子宮が亡くなったからといって、完全に女でなくなったわけではない。医師の言ったとおり、まだ卵巣は二つとも正常に働いているわけだから、女性ホルモンは出ているのだ。
 だとすれば、淫らな夢を見たせいで、自分でも知らない間に膣内に溢れた蜜液でしとどに濡らしてしまったのか。
 これほどの恥ずかしい想いはしたことがない。たとえ誰が見ていなくても、自分が知っている。
 男性であれば、夢精とでも呼ぶのだろうが、こういう場合、女は何というのか。いや、呼び方なんて、どうでも良い。自分では全然、興味も執着もないと思っているのに、実は無意識の中に性に対して強い関心を抱いていた。―そう自覚するのはなかなかに勇気の必要なことだった。
 特に、どちらかといえば潔癖ともいえる紗英子は、余計に認めるには抵抗のある事実だ。
 夫の求めを拒み通した挙げ句、淫らな夢を見て一人で下着を濡らしてしまった。到底、他人に話せるような内容ではない。
 それとも、夫があんな誘いを仕掛けてきたから、つい身体だけが反応してしまったにすぎないのだろうか。紗英子本人の意思とは全く無関係のところで、起きた生理的な反応かもしれない。
 結局、紗英子はそう結論づけた。そうでもしなければ、あまりに恥ずべき事実に、余計に気が滅入りそうだったからだ。

 二日後はクリスマスだった。
 部屋の灯りを消した淡い闇の中で、キャンドルの灯りだけが揺れている。
 紗英子が焼いたブッシュド・ノエル。樹の切り株を模したケーキは純白(ホワイト)の雪(・スノー)を思わせる生クリームをたっぷりと塗り、紅いチェリーとサンタとトナカイの砂糖菓子で飾り付けられている。
 ケーキを囲む紗英子と直輝の傍らでは、愛らしいツリーが全身に煌めくイルミネーションを光の衣のように纏い、いかにもイブの夜らしい雰囲気を作り出していた。
 蝋燭の他にはツリーの灯りだけしかない、幻想的な空間に、直輝の端正な顔が浮かび上がって見える。
 これで二日前の出来事がなければ、申し分のないイブの夜になるはずであった。
 あれから、二人の間には常に緊張した空気が漂っている。それは例えるなら、細い針でほんのひと突きしただけで音を立てて割れそうな風船にも似ていた。
 それでも大人同士のことだから、こうして何もなかったような顔で毎日を何とかやり過ごしている。
 よく離婚するには結婚を決意するときの倍以上のエネルギーを要するといわれる。あれは満更、嘘ではないだろう。現に、紗英子も今から直輝と別れて、また別の人生を生きようという気にはなかなかなれない。
 また別の男と出逢い、その男を好きになり、新しい家庭を築く。しかも、その選択肢に子どもを持つという夢は付属しない。
 かといって、結婚もせずに一人だけでひたすら歳を重ねていくというのも、あまりに空しく淋しすぎた。それに、三十五にもなった女が何の仕事をして生きていけば良いというのか。
 紗英子は地元のN大の英文科を卒業し、一年間は市役所で臨時職員として働いていた。一年勤務した後、直輝と結婚したのだ。
 つまり、大学を卒業してからは殆どの時間を家庭で過ごしたと言って良い。そんな世間知らずで何の特技も資格もない主婦に何ができる? 
 今から人生をやり直すという煩雑なことをやるくらいなら、少々我慢しても、このまま結婚生活を維持する方がはるかにマシだ。