天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅰ
紗英子はまた物想いに沈んだ。どうして、今日、自分は親友をまるで品定めか観察でもするかのように眺めてしまうのだろう。少なくとも、手術すると決まったと知らせて逢ったときには、こんなことはなかったはずだ。
最後に逢ったのはまだ二ヶ月ほど前でしかないのに、自分は随分と変わった―いや、有喜菜を見つめる視線が変化したような気がする。しかも、それはあまり良い意味での変化ではない。
そこで、紗英子はまた我に返った。有喜菜がじいっと見つめているのだ。
「どうかした?」
「紗英こそ、どうしたの? 何だか怖い顔して睨みつけられてるような気がするんだけど、気のせいかな」
「ま、まさか」
内心、心の中を見透かされたようで慌てたし、面白くなかった。
「何で、私が有喜菜を睨みつけなきゃならないの?」
取り繕うように愛想笑いを貼り付けた。
「そうよね。ごめん、私ったら、何てことを口にしたのかしら」
有喜菜は舌を出す。見かけの妖艶さと時折、見せる子どもっぽい仕草のギャップすら、堪らない魅力に思える。これだけの良い女なら、さぞかしモテるだろうなどと、ぼんやりと考える。
「でも、良かった」
「何が?」
有喜菜は邪気のない笑みで応えた。
「だって、本当に元気そうなんだもの。心配してたのよ、これでも」
出かける前、スッピンの自分はまるで死人のような悲惨な顔色をしていた。それで、顔色が良いなどとよく言えたものだ。紗英子は探るように有喜菜の顔を窺い見たけれど、彼女の真意は向日葵の花のような笑顔の下に巧妙に隠されている。
いや、そんな風に考える自分がやはり、どうかしているのだろうか。
「化粧してるからね。多分、そのせいで多少、顔色が良く見えるのかもしれないわ」
これは全くの本音である。
「そうなの?」
有喜菜はちょっと意外そうな表情だ。
「今日、ここで逢ったことは直輝さんには言わないでね」
「そう? でも、何でなの?」
これも意外そうに訊ねられ、紗英子は微笑んだ。
「彼、物凄い心配性なのよ。もう大丈夫だ、家の中のことくらいはちゃんとできるからと言っても、全然きいてくれないの。当分は無理せずにじっと寝ていろって煩いくらいなのよ」
今度の笑みは余裕だったと思う。もしかしたら、多少の優越感も滲んでいたかもしれない。
だが、有喜菜の反応は紗英子の期待していたようものではなかった。有喜菜はどう見ても心からの笑みにしか見えない微笑を浮かべた。
「相変わらず直輝はあなたを大切にしてるのね。愛されてるのよねえ」
有喜菜の反応にいささか戸惑いながらも、紗英子は鷹揚に頷く。
「そうなのかしら? よく判らないけど、大切にして貰っているとは思うわ」
有喜菜は最後のチーズケーキの欠片を口に放り込んだ。
「―幸せ?」
予想外の質問に、紗英子は息を呑む。
「判らない。長年の夢だった赤ちゃんを産むっていう選択肢もなくなったしね」
今日だけはけして弱音は吐かないと決めていたのに、思わぬ質問だったから、つい本音が出てしまった。
後悔しても遅い。何とか体勢を立て直そうと次の言葉を探していると、有喜菜は小さく首を振った。
「紗英は幸せだよ。そんなこと言っちゃ駄目。大切にしてくれる旦那さんがいて、家族がいる。今の幸せを大切にしなきゃ。責任感が強くて優しいあいつのことだから、今、直輝は全力で紗英を支えようとしていると思う。だから、そんなことを言わないで、直輝の気持ちにもなってやって」
その時、気づくべきだったのだと思う。有喜菜の言葉の端々に滲み出る切ない感情の揺れに。
「それでね。相談があるのよ」
紗英子は、どこか浮かぬ表情になってしまった有喜菜には構わずに続けた。
「私たち、十日前が結婚記念日だったんだけど、今年はまだ何のお祝いもできていなくて」
「確か毎年、披露宴をしたホテルでディナーするとか話してなかったっけ?」
「そう。でも、今年は私が入院してたから」
「それは仕方ないよね」
「でも、今年に限って、直輝さんが何も言ってくれなかったの。いつもなら、決まって結婚記念日はどうするって訊ねてくれるんだけどね」
「かえって言わない方が良いと思ったんじゃない? 直輝は見かけによらず、繊細なところがあるから」
「そうよね。私も有喜菜の言うとおりだと思ったの。どうせお祝いできないから、黙っておこうとか気を回したんだと思う。それでね、今年は私の方からクリスマスイブに記念日と兼ねてお祝いしようって彼に提案するつもり。毎年、ずっとプレゼント貰ってばかりだったのに、私の方からは一度もあげたことないし、思い切って彼にもあげちゃおうと思って」
やはり、少しの優越感が言葉に出てしまうのは致し方なかった。
幾ら良い女になっても、夫も子どももいないのではお話にもならない。その点、自分には子どもはいないけれど、有名企業に勤め、ルックスも良くて優しい夫がいる。どちらが立場が有利かは一目瞭然だ。
「ふうん、それで私に相談って、なあに」
有喜菜はいかにも気のなさそうな様子で訊いてくる。自分の心中は棚に上げ、紗英子は不愉快だった。
「何が良いと思う? 彼へのプレゼント」
有喜菜がやっと笑った。
「やだ、私に訊かないでよ。紗英は直輝の奥さんで、十二年も側にいるんだから、彼のことはよく知っているでしょう」
「それが判らないのよ、正直。私って、直輝さんに何かをして貰ってばかりで、あまりしてあげたことなんてなかったから」
「やっぱり、紗英。あなた、幸せ者よ」
有喜菜はしみじみとした口調で言い、しばらく思案げに考え込んだ。ほっそりとした綺麗な両手を組み、テーブルに肘をついている。
まるで女性雑誌の一ページを見るようなワンシーンに、紗英子もつい見惚れてしまうほどだった。その少し愁いを帯びた物憂げな表情といい、優美でありながら、どこか退廃的で官能的な雰囲気を漂わせる仕草といい、プロのモデルか女優のようだ。座っているだけで絵になるとは、まさに有喜菜のような女のことを言うのだろう。
さしずめ、紗英子は親友の引き立て役か、良くて観客といったところ。悔しいけれど、今の有喜菜とでは比べものにすら、ならない。
「腕時計なんて、どうかしらね」
突如として有喜菜が言葉を発し、紗英子はハッと息を呑んだ。
「腕時計?」
我ながら、素っ頓狂な声が出て恥ずかしくなった。
「直輝って、時計集めが趣味みたいなところがあるのよ」
「時計を集めるのが趣味?」
紗英子は首を傾げる。夫にそんな趣味があっただろうか。記憶を手繰り寄せてみても、思い当たる節はなかった。
「そんな趣味が彼にあったかしら」
「私が前に直輝の家に遊びにいった時、見せてくれたのよ。もう引き出しに溢れんばかりに一杯。もちろん、中学生が集めたものだから、そんなに高価なものはなかったけれどね」
「知らなかったわ。直輝さんにそんな趣味があるのも、有喜菜が彼の家に遊びにいったことがあるのも」
つい語調がきつくなってしまったのに、有喜菜が気づいたようだ。
「別にたいしたことじゃないわよ。私たちがまだ中一の頃の話よ。ほら、紗英と私が別のクラスで、私と直輝が同じクラスになったとき。あの頃に、何度か直輝の家に行ったことがあるの」
作品名:天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅰ 作家名:東 めぐみ