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天の卵~神さまのくれた赤ん坊~【前編】Ⅰ

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 我知らず溜息をついたそのときだった。静寂ばかりが重く淀む室内に、携帯電話の鳴る音がやけに大きく響き渡った。
 紗英子はついピクリと身を震わせた。しじまをつんざくように鳴り響くその音が何か途方もなく不吉な出来事の起きる前触れのような気がした。
 そこで、紗英子は自嘲気味に笑う。ずっと待ち望んできた赤ちゃんを永遠に失ってしまったんだもの。もう、これ以上、悪いことなんて起きるはずもない。
 ずっと長年抱えていた子宮筋腫も取ってしまったし、体調はかえって以前より良いほどだ。紗英子はまだ三十五歳だし、他にはこれといった持病もないから、これで本当の意味で健康な身体になれたのだともいえる。
 携帯電話は相変わらず、けたたましく鳴り響いている。
 紗英子は何故か出たくないという想いに駆られたが、そういうわけにもゆかない。渋々、携帯を手に取った。
「もしもし」
―もしもし、紗英?
 聞き憶えのある声音に、紗英子は一瞬、眼を見開いた。
「有喜菜! 有喜菜ね」
「そのとおり、私、有喜菜よ」
 宮澤有喜菜。直輝と紗英子の共通の友人であり、二十三年に渡って付き合っている幼なじみでもある。
―ごめんね。仕事の方が忙しくて、お見舞いにも行けなくて。
 有喜菜は保険外交の仕事をしている。四年前に、夫と離婚して今はシングルだ。今はパートとして雇われているが、いずれは正社員として勤務することが目標だと聞いているから、会社をそうそう休むことができないのは紗英子も理解しているつもりだ。
「良いのよ。生きるか死ぬかっていうようなものじゃなかったんだし」
 屈託なく言うと、受話器の向こうから、どこかホッとしたような声が返ってくる。
―心配してたんだけど、声も元気そうだし、安心したわ。ねえ、もう出かけられるの?
「近くで少しの間くらいなら、大丈夫だと思うけど」
―なら、少し出てこない? 気晴らしにお茶でもしましょうよ。紗英もずっと家に閉じこもりきりじゃ、気が塞ぐでしょ。
「そうね、少しくらいなら良いわ」
 時間と場所を決めて、電話を切る。
 実に久しぶりの外出である。相手が女友達であろうが、心は弾んだ。いや、相手が長年の友達だからこそ、余計に惨めな姿は見せられないと思った。
 女であることを止めてしまえば、それこそ、本当の意味で終わりになる。たとえ子宮はなくなったとしても、自分はまだ〝女〟なのだ。
 紗英子は自室に戻り、ドレッサーの前に座った。やはり、手術後まもないからか、顔色が悪い。血の気がなく、どこか黒ずんだような顔にファンデーションを塗り、更に上から白粉をはたいた。顔色の悪さをごまかすために、チークやハイカラーをそれぞれの箇所に入れる。
 元々薄くて細い眉をきれいに描き、仕上げに濃いめのアイシャドウを乗せて終わった。忘れていたことに気づき、慌ててルージュを引く。これも常よりは濃いめで鮮やかなローズピンクだ。
 改めて鏡を覗き込むと、幾分かはマシに見えた。髪の毛も艶がなく、ぱさついているが、これも病み上がりだから、仕方ない。艶だしスプレーをふり、念入りにブラッシングして緩くシニヨンに結い上げた。
 最後にお気に入りの髪飾りをつけて終了。これも何度目かの結婚記念日に、直輝がくれたものである。スワロフスキーが贅沢に散りばめられたリボン型のバレッタはかなり高価な買い物についただろう。
 念のためにもう一度、鏡に映った自分をチェックし、慌ててマンションを飛び出た。
 待ち合わせ場所は、有喜菜が紗英子の体調を配慮して、近くにしてくれた。マンションの前に大通りを挟んでカフェーがある。パリのオープンカフェを彷彿とさせる、なかなかオシャレな店である。現に、何度か女性誌の記者が取材に来て紹介されたことがあるという人気の店だ。
 そのため、いつ行っても、外のテラス席には人が満員で、店内も溢れんばかりの客が入っている。
 今は十二月、いうなれば真冬だが、昼過ぎのこの時間は小春日和で、陽射しも温かだ。そのせいか、外のテラス席もほぼ満員である。紗英子は視線をさ迷わせ、友の姿を探した。
 と、テラス席のいちばん奥から賑やかな声が聞こえた。
「ここよ、ここ」
 見ると、二人がけのテーブル席から有喜菜が手を振っている。
「待った? ごめんね、支度に手間取っちゃて」
 そう言いながらも、紗英子は有喜菜の全身に素早く視線を走らせる。こういう場合、たとえ長年の気心の知れた友人でも、女同士の眼は容赦がない。たとえ表情や口には出さなくても、心の中では何を考えているか知れたものではない。
 そして、この瞬間、紗英子は〝負けた〟と思った。
 元々、有喜菜はモデル張りのプロポーションをしている。八頭身の恵まれたスタイルに、派手な顔立ちは人眼を引くには十分すぎる。
 ただ一つ難をいえば、学生時代は色気とか女っぽいという言葉とは全く無縁だったことだろう。いつもショートヘアにテニス部のジャージ姿で、ちょっと見には男の子と間違えそうな雰囲気だった。また実際に、書店とか行って店員さんに本のありかなど訊ねると、
―ボクねぇ―、悪いんだけど、その本は今、在庫がないんだよ。
 と、男子学生と間違えられることはしょっちゅうだったといつも笑い話のように打ち明けていたものだ。
 しかし、あれから実に二十三年の月日が経っている。当時はギリギリまで短く切りそろえていた髪は肩につくくらいのセミロングになり、筋肉質で痩せぎすだった身体には女盛りの豊満さがプラスされていた。
 元々スタイルが良いので、まさに〝良い女〟の見本のようでもある。今日の有喜菜は白いシャツブラウスに、膝上の黒のタイトスカート。今は暑いのか、上に羽織っていたらしい黒のジャケットは脱いで椅子の背に無造作に掛けてある。
 髪は下品にならない程度に明るいブラウンに染め、ふんわりとカールさせているし、化粧はナチュラルでいながら、元の顔立ちが派手なので十分に妖艶で美しい。
 病み上がりだから、その分はマイナスになるのは仕方ない。が、それを差し引いたとしても、あまりに今の自分とは違いすぎた。つまり、認めたくはないが、有喜菜の方が数段も良い女っぷりなのだ。
 それはやはり、結婚以来、ずっと家庭に閉じこもりきりで、考えることといえば、子どものことくらいしかなかった紗英子との環境の違いでもあるだろう。
 有喜菜は二十六歳で結婚後も、独身時代から続けていた不動産の会社の事務員をしていた。そういう意味では、ずっと社会に出て働いていたのだ。離婚の原因は夫の酒癖の悪さだと聞いている。普段は大人しい男なのに、酔うと些細なことで腹を立て暴力をふるうらしい。
 紗英子も何度か有喜菜の夫だった男に逢ったことがあるけれど、確かに暴力などふるうとは俄に信じられないような小心そうな男だった。しかし、そういう普段は大人しすぎるほど大人しい男ほど、内面にはストレスをため込んでいるともいえる。
 有喜菜の夫の場合は、それが酔うと暴力という形で出ていたのだろう。紗英子自身、有喜菜が夫に殴られたのだといって顔や手を腫らしていたのを見ているのだから、有喜菜が嘘を言っているとは思えない。