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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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私に還る日

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 宏美がルクソールに現れたのは、そのすぐ後のことだった。
「ごめん! こんなに遅くなるなんて思わなかったのよ!」
 宏美は、暖野の姿を認めるなり顔の前で両手を合わせた。
 その仕草があまりにも大げさだったため、暖野は苦笑してしまった。
「いいよ」
 暖野は言った。「そのかわり、お茶一杯で今まで粘ったんだから、ケーキをおごること」
「えー! そんなぁ!」
 宏美はまたもや大げさに嘆いてみせた。
「いいでしょ、それくらい」
 宏美はさらに渋ったが、暖野がここで待っていた時間を聞いて、しぶしぶながら承知したのだった。もし待ち合わせ場所が図書室なら、さすがに宏美も頑として断ったかも知れないが。
 だが正確には、暖野はお茶一杯で粘っていたわけではない。なぜなら、あの時計を買っているからだ。
 宏美と他愛のないお喋りをしながらさらに30分、ケーキと2杯目の紅茶でおなかを満たした暖野は、上々気分でルクソールを後にした。
 そのときの暖野が、いつになく大事そうに鞄を抱えていることになど、宏美は全く気づきもしなかった。
 二人は駅前のショッピングモールへの道を歩き出した。
 しかし、その日は結局ろくに買い物もせずに帰ることになった。暖野はもちろんあの時計を買ったためなのだが、宏美の方はルクソールでの予定外の出費が多少なりとも応えたと見えて、ずっと欲しがっていたCD一枚だけしか買わなかった。本当は今日の買い物の目的は他にあったはずなのだが、二人ともそんなことなどもうどうでもよくなっていた。
 実は、宏美は冬に向けて、いもしない彼氏に贈るマフラーを編むための毛糸を買うのだと意気込んでいたのだった。暖野はそれを選ぶのに付き合うことになっていたのだが、どうやら宏美自身がそんな無駄をするのも馬鹿馬鹿しくなって諦めたようだった。
 その方が賢明だわ、などと思っている暖野も、いまだに男友達の一人もいない。何とも虚しい限りである。
 駅前で宏美と別れて、暖野は改札口へと向かった。日はすっかり暮れてしまっている。ちょうど下り電車が着いたばかりらしく、勤め帰りの人たちが群れをなして出てくる。暖野はそれをかき分けるようにして進まなければならなかった。それらの人たちは、迎えの車が来ている場合もあるが、概ね団地へと向かうバス乗り場へと流れる。
 人の流れが一段落すると、暖野はようやく改札口を抜けることができた。入口専用の改札機はあるものの、その先が大変だからだ。
 暖野が乗るのは、街へと向かう上り電車である。そのためラッシュに巻き込まれずに済むが、ホームに電車を待つ人も少ない。もっとも下りホームも電車が着いたとき以外は閑散としたものなのだが。
 ほどなくやって来た電車に乗り込むと、暖野は青いロングシートの片隅に腰を下ろして息をついた。隣の車輌へのドアの横、ここに座れるということは、ひどく空いている証拠である。電車の座席は、なぜか大体端から埋まるものだ。ほぼ同時に駅に入ってきた下り電車の混みようとは対照的である。
 今すぐにでも包装を解いて中の時計を手にしたい思いでいっぱいだったが、はやる心を辛うじて押しとどめつつ暖野は家へと帰った。
 玄関を開けると、夕食の匂いがする。
 父はまだ帰っていないらしく、母はリビングで一人テレビを見ていた。
作品名:私に還る日 作家名:泉絵師 遙夏