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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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私に還る日

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 暖野はそれを両手で戴くように受け取ると、手のひらに載せてしばし見つめた。上蓋を開ける。当然かも知れないが、針は停まっていた。上に普通の腕時計のようにネジが付いているが、それを回してみても針はぴくりとも動かなかった。
「壊れてるんですか?」
 暖野はマスターを見上げた。
「ああ、どうやったって動かないんだよ。時計の専門家ではないけど、古いものの扱いにはある程度慣れているつもりなんだが……。ただ――」
 針は5時25分を指して停まっている。暖野は、マスターが途中で言葉を切ったのに気づいて顔を上げた。
「ただ、向こうの人の話じゃ、これは壊れてるわけではないらしい」
「どうしてですか? 動かないのに?」
「どうせ、大方は嘘っぱちなんだけどね。向こうの人の、商売にかける情熱はすごいから。それでもこれが安かったのは事実だ。僕が、値切りに値切ったからかも知れないけど」
「……」
 暖野は動かない時計に視線を落とした。たとえ動かなくとも暖野はもう、この時計を買うことに決めていた。3500円なら、いま手持ちの金で払える。この後、宏美との買い物ではろくに買えなくなってしまうが、そんなことなど気にもならなかった。それに、こんなに待たされたのだから、紅茶とケーキくらい宏美におごらせてやってもいい、などとしっかり考えてさえいたのだった。
「ほんとに、いいんですか?」
 暖野は財布を出汁ながら訊いた。
「それはこっちの台詞だよ」
 そういうことで、商談ともいえない商談は成立した。本来ならここで値引き交渉などをするのだろうが、暖野にはそんな気はさらさらなかった。
 マスターは暖野から時計を預かると、喫茶コーナーへと向かった。そしてカウンターの向こうの引き出しを開けて布を出すと、金属の面を丁寧に磨き始めた。
 暖野はその作業を、スツールに腰掛けて見つめていた。
 マスターは時計を小箱に容れて包装するまでを手際よくやってのけた。暖野はきれいに包装されたそれを受け取ると、そっと鞄の奥にしまった。べつに秘密にしなければならないようなことでもないのだが、なんとなく人に見せるのもはばかられたからだ。
作品名:私に還る日 作家名:泉絵師 遙夏