私に還る日
アゲハは深く息をつき、目を閉じた。そして続けた。
「ここまでの私の話は、時間の流れが常にどこか一定の方向――未来へ向かっていると仮定してのものだった。だが、この世界に起こっていることは、そのような単純なものではない。この時空が取り残された真の理由は、ひとえに自然な時の流れを阻止する力が働いたためだ。それが、どのような力か判るかね?」
暖野は首を横に振った。
「それは、人間の力だよ」
アゲハが厳しい表情になって言った。「人間は自然を制圧することによって文明を築いてきたと言ってもいいだろう。だが、それが行き過ぎになってしまったことは、君も承知のことと思う。
人間はおおいに勘違いしているのだ。自然は決して人間に制圧されはしない。
自然と人間との関係は、人体とウィルスとの関係に象徴される。人体は、体内に異変が起こればそれに対処するが、自然もその裡に異変が起これば同様に対処する。つまり、人間がいくら強力なワクチンを開発しても、必ずそれが効かない細菌が生まれてくる。医学と病との闘いとでも言おうか。ある病気に対する治療法が確立されても、さらなる難病が発生するのも同じことだ。
つまり、人間がいかに自然に抗おうとも、敵うはずがないということだ。自然と人間との基礎体力は比ぶべくもないのだ。
話が逸れてしまって申し訳ない――
この世界が危機に曝されているそもそもの原因に話を戻そう。
人間が時の正常な流れを阻止しようとした。それはダムを造って川をせき止めるようなものだ。だが人間は時を制御するすべを知らないし、そのようなことは不可能なことなのだ。たとえ可能であったとしても、さっき言った理由から、また新たな不確定要素が現れることは間違いない。
一時しのぎにせき止められた流れは、やがてダムの決壊を招くだろう。おそらく相当の混乱と無秩序が時空を支配する。人間はおろか、最悪の場合この宇宙にあるあらゆる存在に影響が及ぶのは必至だ。運良く生き残ったものが新たな時空の再編に充てられるだろう。だがこれは希望的観測でしかない。自然は自ら必要な存在を新に生み出すと考えるのが最も現実的だと私は思う。
自然の時間は恐ろしく長い。人間の一生などほんの一瞬にも満たないが故に、君の世代が異変を知らないままになる可能性もあるが、変化はすでに起こり始めているのだ。
本来の流れがせき止められ、正常な流れが保たれなくなった結果、時空のあちこちで不穏な事態が起こり始めている。
――喪われてゆくのは、単にこの世界だけではないのだよ。
この世界の果たす役割は全ての時空間にとって未知数なのだ。それは、君にはしっかり知っておいてもらいたい。
人は、どんな時にあっても夢を見る生き物だと私は言った。この世界は人々の夢の産物だとも。夢を……本当の意味で夢を失うということがどれほど恐ろしいことか、想像するまでもないはずだ。それは損失や不幸などと言った言葉では表現し尽くすことのできない破滅的なことだと」
アゲハは言葉を止めたが、暖野を見据える視線はそのままだった。彼女は息を詰めて、それを真正面から受け止めていた。
「ここまでの私の話は、時間の流れが常にどこか一定の方向――未来へ向かっていると仮定してのものだった。だが、この世界に起こっていることは、そのような単純なものではない。この時空が取り残された真の理由は、ひとえに自然な時の流れを阻止する力が働いたためだ。それが、どのような力か判るかね?」
暖野は首を横に振った。
「それは、人間の力だよ」
アゲハが厳しい表情になって言った。「人間は自然を制圧することによって文明を築いてきたと言ってもいいだろう。だが、それが行き過ぎになってしまったことは、君も承知のことと思う。
人間はおおいに勘違いしているのだ。自然は決して人間に制圧されはしない。
自然と人間との関係は、人体とウィルスとの関係に象徴される。人体は、体内に異変が起こればそれに対処するが、自然もその裡に異変が起これば同様に対処する。つまり、人間がいくら強力なワクチンを開発しても、必ずそれが効かない細菌が生まれてくる。医学と病との闘いとでも言おうか。ある病気に対する治療法が確立されても、さらなる難病が発生するのも同じことだ。
つまり、人間がいかに自然に抗おうとも、敵うはずがないということだ。自然と人間との基礎体力は比ぶべくもないのだ。
話が逸れてしまって申し訳ない――
この世界が危機に曝されているそもそもの原因に話を戻そう。
人間が時の正常な流れを阻止しようとした。それはダムを造って川をせき止めるようなものだ。だが人間は時を制御するすべを知らないし、そのようなことは不可能なことなのだ。たとえ可能であったとしても、さっき言った理由から、また新たな不確定要素が現れることは間違いない。
一時しのぎにせき止められた流れは、やがてダムの決壊を招くだろう。おそらく相当の混乱と無秩序が時空を支配する。人間はおろか、最悪の場合この宇宙にあるあらゆる存在に影響が及ぶのは必至だ。運良く生き残ったものが新たな時空の再編に充てられるだろう。だがこれは希望的観測でしかない。自然は自ら必要な存在を新に生み出すと考えるのが最も現実的だと私は思う。
自然の時間は恐ろしく長い。人間の一生などほんの一瞬にも満たないが故に、君の世代が異変を知らないままになる可能性もあるが、変化はすでに起こり始めているのだ。
本来の流れがせき止められ、正常な流れが保たれなくなった結果、時空のあちこちで不穏な事態が起こり始めている。
――喪われてゆくのは、単にこの世界だけではないのだよ。
この世界の果たす役割は全ての時空間にとって未知数なのだ。それは、君にはしっかり知っておいてもらいたい。
人は、どんな時にあっても夢を見る生き物だと私は言った。この世界は人々の夢の産物だとも。夢を……本当の意味で夢を失うということがどれほど恐ろしいことか、想像するまでもないはずだ。それは損失や不幸などと言った言葉では表現し尽くすことのできない破滅的なことだと」
アゲハは言葉を止めたが、暖野を見据える視線はそのままだった。彼女は息を詰めて、それを真正面から受け止めていた。