私に還る日
目を開けると眩しい光が飛び込んできて、暖野は思わず顔をしかめた。
バスは停まっていた。やけに静かなのは、エンジンが止まっているからだ。と、いうことは、ここは――
「いけない!」
暖野は急いで前へと駆けてゆきながら、胸のポケットから定期入れを取り出した。
「すみません!」
運転手に謝ろうとして、暖野は戸惑った。運転席には誰もいなかったからだ。
普通なら、バスが着くと同時に乗り込んでくる帰宅ラッシュの人達の姿など影も形も見えない。それどころか駅前の雑踏や物音のひとつすら聞こえていないことに暖野は全く気づいていなかった。
このとき、暖野がもう少し冷静だったならば、この後の展開は違ったものになったかも知れない。いや、もし異変に気づいたとしても、結局は同じことだったろう。
後になって考えてみれば、このときに降りるべきではなかった。しかし、彼女は降りてしまった。
「え?」
地面に降り立って、暖野は目を疑った。
そこは、見知らぬ街角だった。
――ああ、まだ夢を見ているんだわ――
暖野は思い切り頭を振った。
ここは、どこかの駅前なのかも知れない。見ようによっては、駅前広場と見えなくともなかったからだ。ただ、彼女の見知った駅前の光景とは、ここはあまりにもかけ離れていた。
石畳の広場の中央に円形の池があり、噴水が水しぶきを上げている。その向こうには堂々たる石造りの建物があった。駅のようでもあるが、暖野にとってはどちらかと言えば博物館や美術館のように見えたし、またその方が正しいような気がした。博物館なら、こんな時間にはもう閉館していて当然だろうからだ。これで誰もいないことにも納得がいく。
だが、自分がどうして閉館後の博物館の前にひとりでいるのか、そしてなぜこんなところに来てしまったのかは分かりようがない。そもそも博物館など、学校の近くにはなかったはずだからだ。
広場には彼女以外誰もいなかった。西陽に照らされた広場には、暖野ひとりだけの影が長く伸びていた。
夢なんだ、やっぱり。そう、最近はひどい寝不足だったから――
そう考えているときだった。背後で不意にエンジンの音がして、暖野は慌ててふり返った。ちょうどバスのドアが閉じるところだった。
「うそでしょ!」
暖野はバスが停まっている所までのわずかな距離を駆け戻ろうとした。
バスが動き出す。
「ちょっと! 待ってよ!」
無駄だった。暖野の目の前をバスの最後尾がかすめる。
少しの間彼女はバスを追ったが、到底追いつけるものではなかった。石畳の隙間に足を取られ、転びそうになるのをなんとか踏みとどまった。それまでだった。バスはもう、小さな点ほどになってしまっていた。
「ああ……」
暖野は呆然とそれを見送りながら、嘆息した。
彼女はしばし、何を考えることもできなかった。ただただバスの去った方角に、視線を投げるばかりだった。