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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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私に還る日

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 団地を出る頃には乗客は2、3人になってしまった。その人達も団地外れのバス停で降りてしまい、暖野はまたもや回送同然の車内に取り残されてしまった。まだ駅までの行程の半分も来ていないにもかかわらずである。
 状況はいつもと変わらない。ただ窓の外の光景が違うだけだ。 乗ってくる人もいない。
 暖野はポケットから例の時計を取り出した。
「あれ?」
 上蓋を開けた暖野は、自分の目を疑った。
 時計が動いているのである。
 針は、5時32分を指している。
 確か、ずっと5時25分で停まったままだったはずなのに――
 急いで暖野は腕時計を見た。
 合っている。ちょうど35分になるところだった。暖野は腕時計を2分進めている。ということは、今は33分。
 もう一度、懐中時計に目を移すと、こちらも33分になっていた。
 どういう気紛れでか、時計は動き出したのだ。それも、ぴったり時間を合わせて。
 単なる偶然でか、それとも――
「ちょっ――ちょっと待ってよ!」
 暖野は思わず声を上げていた。立ち上がった拍子に鞄が床に転がり落ちた。
 バスが急停車する。
「どうしました?」
 運転士が慌てたようにふり返って訊く。
「す……すみません……」
 恥ずかしさで赤面しながら、暖野は言った。「寝ぼけてました」
 そう言うより他はない。
「降りるんですか」
「いえ。……駅まで行きます」
 当然、暖野が乗り過ごしたか何かだと思った運転士の問いに暖野は応えた。それ以上何も言われることはなかったが、暖野は恥ずかしさでいっぱいだった。いや、それ以上に驚きで心臓が激しく打っていた。
 バスが再び動き出す。暖野が床に落ちた鞄を拾い上げ、席に着くのを確認してから発車した。
 まさか、これが動くということは――
 それは、とりもなおさず自分がこの時計の持ち主だということになるではないか。
 まさか、まさか――
 思考が“まさか”で占領される。
 試しに、もういちど時計を見てみる。やはり動いている。間違いない。
 間違いない――何が――?
 もう判っているにもかかわらず、そこから先を考えるのが恐ろしい。
 これから、どうなるんだろう――
 バスは相変わらず田園地帯を走っている。造成中の宅地などが散在しているなだらかな丘陵地。
 外を見ていると、鼓動も少し落ち着いてきた。
 これが動いたということは――でも、何が起こるのかは分からないのよね――
 再び時計に視線を落とす。
 分からないことだらけだわ――
 興奮していることは確かだった。何がきっかけで時計が動き出したのかも分からない。そしてあの話を信じるとすると、自分が本来の持ち主だということになる。
 だからって、何――?
 宏美なら、どうせ自分のものなら、わざわざお金払う必要はなかった、などと言うだろう。
 そう考えて、暖野はふっと笑った。
 シートに背を預ける。
 彼女にとって今日は大変な一日だった。これが学園祭まで続くのかと思うと、それだけでも気が滅入る。
 ……今日は、本当に疲れたわ――
 目を閉じると、体が沈み込んでゆくような感覚が襲ってくる。
 体が重いというのは、こういうのをいうのだろう。
 どうして夜は眠れないのに、起きてるとこんなにも眠いんだろう――
 バスはちょうど橋を渡ろうとしているところだった。
 この川は、駅の近くの川と同じだろうか――
 そんなことを考えながら、暖野は眠りに落ちていった。
作品名:私に還る日 作家名:泉絵師 遙夏