私に還る日
しばらくは買付旅行の話を聞いていたが、ふと会話が途切れたときに、暖野は例のことを口にした。
「あの……」
マスターが注視する。その顔は、わずかの間に変わった暖野の表情に、明らかに戸惑っていることを物語っていた。
暖野は手にした時計に視線を落とした。見つめられて、言うべきかどうか、今さらながらに迷いが出てくる。時計の出所などについて訊いてみようと考えていたのだが、内容が内容だけに話し辛かった。
「なんだね?」
マスターが心持ち表情を弛めて言う。
「……」
「どうかしたのかな?」
「いえ。……そういうわけじゃないんですけど……」
はっきり言って、自分のしようとしている質問は馬鹿げていると思った。しかし、ここで訊かなければ、後々までしこりが残ってしまう。
「あの……」
思い切って、暖野は口を開いた。「この時計、どこで仕入れてきたんですか?」
こんな何でもない問いを発するのに、どれだけ勇気が必要なんだか――。
だが、とりあえずきっかけはつかんだ暖野は、気持ちが萎えないうちに続けて言った。
「この裏に、何か文字が彫ってあるの、知ってました? ひょっとしたら、マスターなら知ってるかと思って――」
どうも取って付けたような理由だなとは思った。それでも暖野は裏蓋を外し、そこに彫られたものをマスターに見せた。
「ああ。これはタンセンで見つけたんだ。といってもわからないね。ネパールの小都市だよ。でも、そこに書いてるのは向こうの文字じゃない。僕の知る限り、そんな文字は見たことがないよ」
「そうですか。これもネパールで……」
「うん。3年前にね」
「よく憶えてますね」
「当たり前さ。こんな商売をしてると、出所とか由来を聞いてくるお客さんもいるからね。それに――」
マスターは、言いかけて口をつぐんだ。
「何ですか?」
「ああ、この時計は特に印象に残っているんだ」
暖野は心持ち身を乗り出した。
「何かあるんですか?」
「この時計はね、ちゃんとした店で買ったものではないんだ。潰れかけた雑貨屋みたいな店の奥で、たまたま見つけたんだよ。普段なら職業的な勘で見向きもしないような店なんだが、そのときは何故か吸い寄せられるようにそこに入った。そして、この時計を見つけたんだよ」
マスターは、そこでお茶の残りを飲み干して続けた。
「僕はどうしてだか、これを買わないといけないような気がした。で、そこの主人に訊ねた。最初は1万円くらいの値段を言ってきたんだけど、最後にはただ同然で引き取ることができた。でも交渉が成立したとき、店主が奇妙なことを言ったんだ」
「奇妙って、どんな?」
暖野は勢い込んで訊いた。
「どうしたんだい? そんなに慌てて。 まさか、何かあったんじゃないだろうね?」
暖野は思った。やはり、この時計には何かいわくがあるのだ。
「いえ、何でもないんです。先を続けてください」
「そうかい? それならいいんだけど。――この時計が見つけられたからには、また旅に出る気になったんだろうって、その店主は言ったのさ」
「旅に出る?」
「その人の言うには、この時計は本来の持ち主を捜しながら旅をしているらしいんだ。そして、その持ち主が手にしたとき、再び時を刻み始めると――。でも、もうかれこれ30年近くその店にあって、店主ですらそのことを忘れていたらしいけど。もちろん、僕もそんな話はでたらめだと思っていたさ。でも、どうやっても動かないんだ。その時ばかりは馬鹿げた話を信じる気になったね」
「そんなことがあったんですか……」
「まあ、僕もいろいろな所でものにまつわる因縁話は聞くがね、こればかりは突拍子もなかったから特に鮮明に憶えているんだ」
「それで、これが本来の持ち主の手に渡ったら、どうなるんですか?」
「また動き出すのさ」
「それだけですか?」
「さあ、その後のことまでは、聞かなかったからなあ」
「そんな――」
結局、肝心なところは誰も知らないのだ。暖野は悲痛な面持ちになった。
「暖野君、だったかな。本当に、何もないんだね?」
「いえ――そんな、……何も……」
「……」
沈黙が流れる。
「冗談だよ、きっと。向こうの人は冗談が好きだから、からかわれただけなんだよ」
「本当に、何もなかったんだね?」
マスターが念を押した。
「……すみません。私、これで失礼します」
辛うじて理性を保ちながら、暖野は席を立った。
「もし何かあったら、いつでも言っておいで。お金はきちんと返す。物だからと言って甘く見てちゃいけないよ。おかしいと思ったら、すぐに手放すべきだ」
「はい。――今日は、どうもありがとうございました」
心配げなマスターの声を後に、暖野は店を出た。暖野の背後で、入ってきたときと同じように鈴が音を立てた。
本来の持ち主――果たして、自分がそうなのだろうか。どうせ迷信なのだとは思っても、簡単には割り切れなかった。暖野は初めてこの時計に出逢ったときのことを思い返した。あれは、自分がその“持ち主”であるが故に感じたものなのだろうか、と。
だが、まだそうと決まったわけではない。なぜなら、時計は動かないままだからだ。
しかし――
だとすると、あの夢はどうなのだろう?
『やっと会えた』
『待っていた』
少年の言葉の意味は。
暖野は確定されることのない解を求めて、しきりに問いを繰り返した。それはあたかも決して尽きることのない円周率のようでもあった。
「あの……」
マスターが注視する。その顔は、わずかの間に変わった暖野の表情に、明らかに戸惑っていることを物語っていた。
暖野は手にした時計に視線を落とした。見つめられて、言うべきかどうか、今さらながらに迷いが出てくる。時計の出所などについて訊いてみようと考えていたのだが、内容が内容だけに話し辛かった。
「なんだね?」
マスターが心持ち表情を弛めて言う。
「……」
「どうかしたのかな?」
「いえ。……そういうわけじゃないんですけど……」
はっきり言って、自分のしようとしている質問は馬鹿げていると思った。しかし、ここで訊かなければ、後々までしこりが残ってしまう。
「あの……」
思い切って、暖野は口を開いた。「この時計、どこで仕入れてきたんですか?」
こんな何でもない問いを発するのに、どれだけ勇気が必要なんだか――。
だが、とりあえずきっかけはつかんだ暖野は、気持ちが萎えないうちに続けて言った。
「この裏に、何か文字が彫ってあるの、知ってました? ひょっとしたら、マスターなら知ってるかと思って――」
どうも取って付けたような理由だなとは思った。それでも暖野は裏蓋を外し、そこに彫られたものをマスターに見せた。
「ああ。これはタンセンで見つけたんだ。といってもわからないね。ネパールの小都市だよ。でも、そこに書いてるのは向こうの文字じゃない。僕の知る限り、そんな文字は見たことがないよ」
「そうですか。これもネパールで……」
「うん。3年前にね」
「よく憶えてますね」
「当たり前さ。こんな商売をしてると、出所とか由来を聞いてくるお客さんもいるからね。それに――」
マスターは、言いかけて口をつぐんだ。
「何ですか?」
「ああ、この時計は特に印象に残っているんだ」
暖野は心持ち身を乗り出した。
「何かあるんですか?」
「この時計はね、ちゃんとした店で買ったものではないんだ。潰れかけた雑貨屋みたいな店の奥で、たまたま見つけたんだよ。普段なら職業的な勘で見向きもしないような店なんだが、そのときは何故か吸い寄せられるようにそこに入った。そして、この時計を見つけたんだよ」
マスターは、そこでお茶の残りを飲み干して続けた。
「僕はどうしてだか、これを買わないといけないような気がした。で、そこの主人に訊ねた。最初は1万円くらいの値段を言ってきたんだけど、最後にはただ同然で引き取ることができた。でも交渉が成立したとき、店主が奇妙なことを言ったんだ」
「奇妙って、どんな?」
暖野は勢い込んで訊いた。
「どうしたんだい? そんなに慌てて。 まさか、何かあったんじゃないだろうね?」
暖野は思った。やはり、この時計には何かいわくがあるのだ。
「いえ、何でもないんです。先を続けてください」
「そうかい? それならいいんだけど。――この時計が見つけられたからには、また旅に出る気になったんだろうって、その店主は言ったのさ」
「旅に出る?」
「その人の言うには、この時計は本来の持ち主を捜しながら旅をしているらしいんだ。そして、その持ち主が手にしたとき、再び時を刻み始めると――。でも、もうかれこれ30年近くその店にあって、店主ですらそのことを忘れていたらしいけど。もちろん、僕もそんな話はでたらめだと思っていたさ。でも、どうやっても動かないんだ。その時ばかりは馬鹿げた話を信じる気になったね」
「そんなことがあったんですか……」
「まあ、僕もいろいろな所でものにまつわる因縁話は聞くがね、こればかりは突拍子もなかったから特に鮮明に憶えているんだ」
「それで、これが本来の持ち主の手に渡ったら、どうなるんですか?」
「また動き出すのさ」
「それだけですか?」
「さあ、その後のことまでは、聞かなかったからなあ」
「そんな――」
結局、肝心なところは誰も知らないのだ。暖野は悲痛な面持ちになった。
「暖野君、だったかな。本当に、何もないんだね?」
「いえ――そんな、……何も……」
「……」
沈黙が流れる。
「冗談だよ、きっと。向こうの人は冗談が好きだから、からかわれただけなんだよ」
「本当に、何もなかったんだね?」
マスターが念を押した。
「……すみません。私、これで失礼します」
辛うじて理性を保ちながら、暖野は席を立った。
「もし何かあったら、いつでも言っておいで。お金はきちんと返す。物だからと言って甘く見てちゃいけないよ。おかしいと思ったら、すぐに手放すべきだ」
「はい。――今日は、どうもありがとうございました」
心配げなマスターの声を後に、暖野は店を出た。暖野の背後で、入ってきたときと同じように鈴が音を立てた。
本来の持ち主――果たして、自分がそうなのだろうか。どうせ迷信なのだとは思っても、簡単には割り切れなかった。暖野は初めてこの時計に出逢ったときのことを思い返した。あれは、自分がその“持ち主”であるが故に感じたものなのだろうか、と。
だが、まだそうと決まったわけではない。なぜなら、時計は動かないままだからだ。
しかし――
だとすると、あの夢はどうなのだろう?
『やっと会えた』
『待っていた』
少年の言葉の意味は。
暖野は確定されることのない解を求めて、しきりに問いを繰り返した。それはあたかも決して尽きることのない円周率のようでもあった。